文筆業 切通理作インタビュー(4)
牛田:切通さんにとってこれは頼まれても書きたくないものってありますか。
切通:仕事で来たものに対してはほとんど断ったことないんです。自分がもともと興味を持っていたことだけでなく、相手がドアを開いてくれることがあります。例えば、ある本の書評をしてくださいって仕事があって、存在も知らない本だったりするわけですよ。自分の趣味だけで読んでいればその本に出会わない。自分の見方だとどうしても時代の片側だけみていたりしますからね。時間的な問題で出来ないことは辞退することもありますけど、その場合でも時間がもう少しあれば出来るだけやろうとします。僕、薔薇族映画で『ゲイのおもちゃ箱』(ENKプロ、1993年)というオムニバス作品の一つで脚本を書いたことがあるんですよ。それが経歴に載っていて、ゲイ・カルチャーの歴史を書いて欲しいという仕事がきたのですね。いつまでですかって尋ねたら三日後だったのです。全然知らない世界だったからご辞退したのですが、時間があれば調べたかったですね。
牛田:自分だったら選ばない題材なんかはありますか。
切通:書けないことは書きようがないけれど、選べるんだったら書く方を選びますね。
牛田:まさにライターという職業ですね。
切通:最初は知らなかったことだとしても、やっているうちに興味を持ったりします。僕はそれが楽しめるほうかもしれない。僕という人間を、著作を通して知っていて、この人にはこういうことが向いているじゃないかってことで仕事がくるわけですから、貴重な機会です。とにかく無関心でいたくないというのはあります。映画評論でよく、「この映画の原作は読んでいないが」って、予防線のように書いてあるのを見ることがあります。あれ疑問なんです。原作がすごい量だったり日本語に翻訳されてなくて数日で読むのが難しいのだったらともかく、漫画でたかが五巻ぐらいしか出てないものだったら、それぐらい読めばいいのにって思いますね。たとえばある台詞が面白いと思ったとして、これは原作にもともとある台詞なのか、映画のために書いた台詞なのかってのは僕だったら知りたくなります。そういうことをしないで、映画の本数だけ多く見ているという評論家には疑問を持たざるを得ない。
牛田:『情緒論―セカイをそのまま見るということ』についてお伺いたします。御著書のなかで風景論について語られています。情緒と風景というのは、逆のものだと思っていたのですが、御著書を読んでいると風景がきて情緒がくる。あるいは情緒がきて風景がくるというような感じだったのですが。
切通:世間に出してみて、僕が言っている情緒というのは、一般的には情緒と思われているモノではないかもしれないと思ってきましたね。坂口安吾が『文学のふるさと』で言っているような、残酷なことがあっけなく終ってしまったりする、文脈が剥ぎ取られた状態を情緒って言っているのですが。これより前に『失恋論』(2006年、角川学芸出版)という本を書いたのですけど、その時には書いてあることが読むスピードで理解していけるように、あまり詰め込まなかったんです。でも『情緒論』はその逆に、難しいところにあえて分け入っていくような書き方をしました。春秋社の読者には、そのぐらいがちょうどいいかなと。
牛田:情緒というと桜が咲いたら春が来たことを感じるようなことだと思っていました。それと子どもに対する教育です。情緒を育てる教育とか、日常生活ではあまり使う言葉ではないので。
切通:情緒ってものが嫌いで、そこから抜け出していきたい。例えば大島渚監督だったら従来の大船調が嫌いで、それをはぎ取ろうとしました。中平卓馬さんの写真もそうだと思います。そういう人たちが逆に情緒を意識している気がします。僕は情緒っていうのは、人がいた痕跡だと思います。だから下町情緒もある一方、人の誰も居ない埋め立て地にも情緒がある。
牛田:中平卓馬さんが出てくると風景論みたいですね。
切通:僕にとっては風景も情緒も同じです。世界を風景的にみることが情緒だと思っているんです。柳田國男は固定化された美を求める心を批判しています。そうではなくそれを見ている自分が動いていることを意識しなくてはならない。桜の花びらが散るときにそれを見ている自分のうつろいを意識するのではなく、いつの間にか桜をみたら情緒を感じるという記号になってしまうことに柳田は批判を加えている。中国の山水画みたいなモノを見て、日本の風土と違うのにあれが自然だと思い、それに現実の風景をあてはめるのはナンセンスだと言っているんですね。養老孟司さんも言っていたけど、世界が動いているのではなくて、自分が動いているのだと。
- 文化会議
- 2008年04月25日
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