写真評論家・飯沢耕太郎(3)


写真評論家・飯沢耕太郎


写真と言葉


―― 先生は学生時代、詩も書いていらっしゃったそうですが、言葉というものと写真との関わりは、どうお考えですか。映画、絵、写真など、意外に、なにをやるにしても、言葉というものが大事になってくると思うのですが。


飯沢 映像芸術と言葉の芸術って、メディアの成り立ちの時点では、求められるものが違っていたと思うんです。しかし、どこかで共通する部分はある。人間のものの見方、世界観を表現するあり方としての共通性があるよね。


 写真家の書いた文章を読むと、その人がよく出ていることが往々にしてあるんですよ。精神的・身体的な身構え方という部分においては、言葉でも映像でも、共通している部分がある。例えば、文章を書くことを専攻している学生が、写真を撮ってもいいわけです。たぶん、その方が、写真を専門とする学生の作品よりも、面白いものができると思うんだよね(笑)。教科書的なものを逸脱しているわけだから。


 それに、今はデジカメの時代でもあるし、うまく生かすといいものができると思うよ。大前提として、デジカメ時代以降の写真のあり方というものがあるよね。これまで築かれてきた写真の歴史や写真の見方、こういうものを、一度チャラにしないといけないと思います。今は模索の時代ですからね。


 その一方で、ブログなんかを見ていても、結局どの写真も同じに見えてくるじゃない。だからある意味、かえって不自由な時代なのかもしれないね。


―― これからは、沢山ある写真を「読む」時代かもしれませんね。それから、写真に言葉をつけてもいいし、ある言葉からイメージして写真を撮ってもいいですね。


飯沢 この前、日経新聞に「写真俳句」というのが紹介されていた。とても流行っていて、写真と俳句を一緒に印刷できる特別なプリンターも売れているんだって。


―― 技術の発達という側面で言うと、ボタンを押すと「アラーキー」風の写真が撮れたりとか(笑)。いずれそうなってくるんでしょうか。理屈より実践の時代になってきている感があります。


飯沢 そんなアナーキーな状態の中から、表現のジャンルとして固定していかないといけないわけなんだけれど、その固定が難しくなってきていますね。価値判断の原理・原則が立たない限りは固定できないわけだけれど、じゃあ、誰がどういう基準で判断するの、って話になる。それが見えないわけだから。

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