宗教学者・島田裕巳(3)
師・柳川啓一と「イニシエーション」
―― そもそも、先生は宗教学のご専門ですよね。なぜ宗教学という分野を選ばれたんですか。
島田 大学二年から三年になるときに、学科を選んで進学するんですが、点数で振り分けられるんです。僕は最初、文化人類学をやろうと思っていました。けれど、成績が悪くて行けなくて、その反面、「宗教学」は底なしっていわれていたので、誰でも入れたんですよ(笑)。
僕自身はあまり、宗教に対して関心はなかったんですが、大学二年のとき、柳川啓一先生の授業をとって、そこで論じていた「イニシエーション」構造の話が面白くて! それこそ、文学についても、歴史を解釈する上でも、イニシエーション構造によって語れてしまうんですよ。応用可能なんですね。だから、僕はあくまで、宗教から入ったのではなく、宗教学というものに興味をもった、ということです。
そして、四年生のときに柳川先生が、新宗教運動の研究の目的で、学生を色々なところに潜り込ませて、体験調査を促したんですが、僕はヤマギシ会に行きました。しばらくはそこに入っていたんだけれど、途中でイヤになって。僕って都会っ子だから、田舎にあるヤマギシ会の農場がイヤになっちゃったんですよ(笑)。だから、大学院に進むことにしました。まるで『坊っちゃん』みたいだよね。当時は、他に行くところもなかったしね。一度人生外れちゃって、就職もできないから(笑)。そんな人生を見つめなおす意味も込めて、大学院に行ったという感じです。
ちなみに、柳川先生の息子さんがグループサウンズをやっていまして、渡辺プロに入っていて、後に作詞家に転じています。沢田研二の曲に携わったりしてね。うちの学科は先生の影響もあって、非常に芸能っぽい雰囲気でした。後輩には東大生演歌歌手なんて人もいて。東大の中の、外れだった(笑)。

―― 大学院にすすみ、さらに柳川啓一先生のもとで研究されたんですね。
島田 そう。先生はアル中に近かったけれど(笑)。宗教学には、普通の年だと、せいぜい二~三人しか入ってこないんだけれど、僕らのときだけは十六人も入っています。その中には、四方田犬彦氏もいました。ちなみに、中沢新一氏や中原俊氏は僕の先輩です。
僕自身は、修士二年、博士五年、在学していました。博士課程は今とは違って、博士論文は義務ではなかったんです。むしろ、「そんなもの書けないよ」って雰囲気だった。だから博士課程に入ると、何をやっていいか分からなくて、そこで、「人生どうする」みたいな状況に追い込まれてしまいましたね。就職は必ずしもあるわけではないし。ちょうど、オイルショックの後の、就職難の時代だったし。就職がふって来るのを、「弥勒信仰」みたいに待っていたりなんかしてね(笑)。
―― 大学教員の就職というのは、現実的に、ほとんどすべて、紹介ですよね。柳川先生以外に、就職など紹介してくれた方はいたんですか?
島田 おもに先輩ですね。まず、僕が最初に就職した先は「放送教育開発センター」。全然、宗教学とは関係ないんだけれど、遠隔教育のプロジェクトをやっていましたよ。先輩がそこの部長でした。
当時、僕は助手だったんですが、研究計画の作成を任せられたりしていました。ここではプロジェクトをやったり、月刊で機関誌を出したり、結局、五年半働きました。入ったのが三〇才のときで、途中で助教授になったんですが、そのとき、所長が代わったんです。この人が、僕の先輩である部長と、とても仲が悪くてね。それで、僕が助教授になってからは、完璧に窓際に追いやられてしまいました。あれは精神的に良くない経験でした。千葉の幕張っていう、当時の埋め立て地で、まさに、地の果てというイメージ(笑)。
その後、幸運にも日本女子大学に拾われました。これも僕の先輩の紹介でした。日本女子大はとても業績にうるさいところで、僕以外に、二人の先輩が候補にあがっていたらしいんだけれど、はねられちゃっているんですよね。でも、その人たちはまだ非常勤で残っていて、気まずかったですね。それが一九九〇年のことでした。
- 2007年09月30日
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