編集者・新井信 (10)

いちばん悲しい別れ・近藤紘一
新井 私が担当した作家もすでに十数人も亡くなられていますが、いちばん悲しい思い出は近藤紘一さんです。彼はサンケイ新聞特派員でサイゴン陥落の日も現地に留まって報道した人です。現地で知り合った年齢不詳の子連れベトナム女性と結婚し日本に連れてくるんですが、その妻の娘教育がすさまじい。その様子をユーモアたっぷりに雑誌に書いていたのを読んで、これは教育論としてもイケるぞと思いました。それが『サイゴンから来た妻と娘』です。沢木耕太郎の『テロルの決算』と大宅壮一ノンフィクション賞を同時受賞したんです。僕が担当した本が二つとも賞をとった、あれは編集者生活でいちばん嬉しかったなあ。

家も近所だったので始終、往ったり来たりしていましたし、彼がバンコク特派員になったときも何回か原稿取りに行きました。帰国したある夏、胃潰瘍ということで虎の門病院に入院したんです。父上は胃がんの権威でしたから、最初はそうかと信じていたんですが、だんだん素人目にもおかしいなあと感じるようになりました。ご当人は夫婦で病院のベッドで寝たりして看護婦に顰蹙をかったりしてたんですが、だんだん肩が痛い、目がおかしいなどと言い出した。長いこと寝てるからだよと慰めたのですが、筆を持つのがしんどいなら、テープに吹き込んで小説でも書いたらどうだと薦めてみたりしたんです。
翌年の1月、近藤家の縁者からもう命も残り少ない、友人たちにはあなたから伝えてほしいと言われ、一人ひとり喧騒のビアホールに呼び出しました。何故って、いい年をしたおじさんたちが泣くんですよ。周りがうるさいほうが目立たないでしょう。週に2、3回は見舞いに行ってたんですが、1月27日、たまたま他の書き手を熱海にカンヅメにして帰ってきたら、奥さんから電話があったという伝言がありました。最後には間に合ったんですが、ベッドを整理してたらテープが1本ポツンと転がってた。何も入っていませんでした。そのそばに何故か『白い巨塔』下巻だけがありました。彼は胃がんと知っていたんですね。
奥さんに病院の廊下でお金がないどうしたらいいの、と泣かれたのには困りました。近藤家は代々医者の家、後を継がなかったばかりか、気に入らない嫁を連れてきたということで、実家とはうまくいってませんでしたから。お葬式ではベトナムルポでお世話をした司馬遼太郎さんが素晴らしい弔辞を読んで下さったのですが、お墓がない。ベトナム人は立派な墓を作るようですが、日本では無理です。遠いけれど、値段の安い富士霊園で納得させ、位牌は浅草寺に永代供養しました。墓にはうちの息子の運転で遺骨を運びました。奥さんはいまパリにいて、墓参りとビザ切り替えのため3年おきに帰ってきます。娘もフランス人と結婚して子供も中学生になり、昨年日本で会いましたが、まったく白人の顔だった。彼は富士の麓で苦笑しているでしょうね。
横井庄一の手記『明日への道』ができるまで
新井 ノンフィクション出版には、稀有な体験をした人の手記も入ります。昭和47年1月、横井庄一元軍曹がグアム島で戦後27年ぶりに救出されました。雑誌でも取れなかったこの手記を取るためにはどうしたらいいか。初めは帰国して入院している病院に掃除夫にでも化けて忍び込んだらどうかなんて思ってたんですがうまくいくわけない。正攻法で厚生省担当官に日参して信頼してもらい、ついに承諾を取ることに成功しました。彼は結婚相手も見つかり、新築の家を後援者から名古屋郊外に建ててもらって住んでいました。2階にはまだビニールも剥がしていないピンクのダブルベッドが置いてあり、それを私が初めて使ったんです。泊りがけでテープを採ってまとめたのが『明日への道』です。20数万部は売れたでしょうか。27年の想いがこもった「忍」という色紙と、亡くなられた後、夫人から遺品としていただいた横井さん作の一輪差しの焼き物は、私の数少ない宝物ですね。
その2年後、小野田元少尉がルバング島から30年ぶりに帰国しました。今度も手記をと当然張り切りました。小野田氏のご兄弟からご母堂にまで挨拶して回り、実家のある和歌山県海南市には新幹線日帰りで日参しました。あるときは親戚の葬儀にまで香典を持っていき、和歌山県知事に口利きを頼むため、宴会をしていた隣の部屋に潜んで終わるのを待ったこともあります。しかし、意外な結末が待っていました。小野田さんは戦前の日本しか知らないんですよ。彼の最後のひと言は、「私は御前試合の野間先生を尊敬している。軟弱な小説を書く菊池寛は嫌いだ」。野間講談社社長の弟さんは日本を代表する剣士だったのです。これですべて決着。手記は講談社から出版されました。
- 2007年02月20日
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