映画書籍編集者 高崎俊夫インタビュー(1)
(牛田)今回は波多野先生の話しを受け継いで70年代からの映画雑誌についてお話を伺いたいと思います。

(高崎)波多野さんは、インタビューのなかで70年代の初頭、『映画評論』『映画芸術』というふたつの雑誌が失速していったとおっしゃられていますが、まさにその通りだと思います。その理由はいろいろ考えられますが、一つは連合赤軍の浅間山荘事件をピークに、学生運動が一挙に退行していくなかで、政治的な主張やイデオロギーによって映画を語るという風潮がぴたりと止んでしまったこと、そして、実際、そういう視点で論じられるような映画もなくなってしまったことが挙げられるように思います。『映画評論』も『映画芸術』もタイプは異なりますが、そうした時代思潮や文化状況を反映した雑誌でしたから、自ずと勢いがなくなって行ったのだと思います。僕が映画を本格的に見始めるのは、まさに、その時期からなんです。
(牛田)映画狂いはいつ頃から始まるのでしょうか。
(高崎)僕は中学時代は『スクリーン』を読んでいるような無邪気な洋画ファンでした。ちょうど『俺たちに明日はない(1967年、アーサー・ペン)』や『卒業(1967年、マイク・ニコルズ)』なんかのアメリカン・ニューシネマが公開された時期で、それはそれでとても面白かったんですが、高校二年の時に、封切りで最後の日活映画、藤田敏八監督の『八月の濡れた砂(1971年)』を見たんです。話は、その頃に見たフランク・ペリーの『去年の夏(1969年)』に良く似ているんですけど、もっとすごいじゃないかと感激してしまったんです。そして、その翌月に大映最期の作品である増村保造監督の『遊び(1971年)』に出会って、深い衝撃を受け、一挙に日本映画の魅力に取り憑かれましたね。さらに、その翌年、田中登監督の『牝猫たちの夜(1972年)』を見て、日活ロマンポルノの素晴らしさにも目覚めました。
(牛田)映画雑誌なんかも読んでいたんですか。
(高崎) ちょうど、その頃は白井佳夫さんが『キネマ旬報』の編集長になって、怒涛のように面白い連載を始めた時期でした。渡辺武信さん「日活アクションの華麗な世界」、山田宏一さんの「シネ・ブラボー!」、小林信彦さんの「架空シネマテーク」そして竹中労さんの「日本映画縦断」、木村威夫さんの「今年こそ、鈴木清順に映画を撮ってもらうために!」といった刺激的な読み物が続々とあって、夢中になって読みました。それ以前の『キネマ旬報』はもともと官報雑誌って呼ばれていて、興行価値を重視したり、毒にも薬にもならないような、つまらない印象批評が多かったんです。その対抗軸として『映画評論』や『映画芸術』の存在理由があったわけですが、白井佳夫さんは、意識的に、このカウンター・カルチャー的な二誌で育った若い優秀な書き手を『キネマ旬報』に持ってきて、誌面を刷新したんですね。
- 2007年01月19日

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