日本近代文学研究家・平岡敏夫  「坊っちゃん」誕生100年記念インタビュー(2) 

平岡

「『坊っちゃん』試論」はこうして生まれた

山下 2006年は『坊っちゃん』が発表されて100年という記念すべき年です。そこで、坊っちゃん研究の先駆け的存在である平岡先生に、あらためて『坊っちゃん』についていろいろとおたずねしたいと思います。同時に、先生が生涯をかけて研究していらっしゃ日本近代文学というものについてもお話を伺えたらと思います。
 先生は悲劇としての『坊っちゃん』論をはじめて書いた第一人者でいらっしゃいますが、そもそも、なぜ『坊っちゃん』という作品に惹かれるのでしょうか?
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平岡 『坊っちゃん』の研究というのはだいたい昭和40年代頃から始まるといわれていますが、横浜国立大学で漱石の講義を始めたのは昭和43年で、そのときに『坊っちゃん』を何度も読み返したわけです。
 終りにくるとジーンとしちゃう、それが『坊っちゃん』を読んだ最初の印象ですね。涙が滲んでくるような作品だと感じました。オーバーに言うと、涙なくして読めない小説だと思ったんですよ。こういうようなことを話ながら講義をしていて、昭和46年の1月号の『文学』(岩波書店)に「『坊っちゃん』試論ー小日向の養源寺」という論文を書きました。
 この論文では、小日向の養源寺に眠る清と、坊っちゃんの関係という問題を中心に取り上げました。それから学校の問題。当時は全共闘運動の盛んな時代で、意識していたわけではなかったのですが、大学の教員をしている仲間から今の時代の学生と教師の断絶の物語だと言われたことがあります。坊っちゃんと生徒集団とは断絶していて、連帯を硬くしようということもないわけです。
 明治39年発表の島崎藤村の『破戒』は、主人公が非差別部落出身で、それを告白することで差別を受けるのですが、生徒たちは先生を大変慕っていますね。先生が去るときに、生徒たちが見送りに行こうとする場面もあります。学校小説というのは、教師と生徒たちとの結びつきというのがあって成り立っているわけです。同じ39年に啄木が『雲は天才である』という小説を、未完成なんですが書いています。これも生徒と先生の深いつながりが描かれています。
 必ず、先生と生徒の間にはつながりがあるんです。ところがあの頃は大学も教員も全共闘を全否定という感じでした。そのことを反映して、孤立している教師と坊っちゃんが重なっていったと読まれたのです。

山下 全共闘運動時代、先生はすでに教員でいらっしゃったんですよね? 

平岡 横浜国立大学にいて、教授に昇格したらすぐ、学生担当の委員長になりまして、中核、革マル、民青などが最も先鋭的なところでしたから、襲撃を受けた学生をかついで帰ってきたこともあります。背中に背負っているその男を後ろから来て、殴ったり蹴ったりと、すごい経験でしたね。それが『坊っちゃん』論に影響しているかはわからないけれど、自ずからあるかもしれません。全共闘運動を反映していると言われたこともありますからね。

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