映画書籍編集者 高崎俊夫インタビュー(4)
(高崎)当時は、実験映画を上映する常設のスペースはありましたけど、現在のような、いわゆる一般の商業映画館ではなかったんです。僕が『月刊イメージフォーラム』の編集部に入った80年代の前半は、イメージフォーラム映像研究所が軌道に乗り始めていた時期だったように思います。ですから『月刊イメージフォーラム』も創刊当初は、実験映画の批評がメインでしたが、『映画評論』もなくなり、『映画芸術』も不定期刊になりましたから、そういう背景もあって、一般の映画の長篇論文、たとえば、山根貞男さんの「活劇の行方」なども掲載していったんですよ。『リュミエール』のような季刊誌と違って、月刊誌というのは時代の生々しい空気感がそのまま誌面に反映されますからね。創刊の頃(1980年6月)、鈴木清順監督が『ツィゴイネルワイゼン(1980年、シネマ・プラセット)』で鮮やかに復活し、ちょうど黒澤明監督の『影武者(1980年、黒澤プロ/東宝)』も同じ年だったんですが、『ツィゴイネルワイゼン』が賞を総なめして、ああ、時代は変わったと思いましたね。一部の熱狂的なファンに愛されていたカルト監督の鈴木清順がいきなり、<天皇>クロサワを押しのけて、メインストリームに躍り出たわけですからね。その後も、『カポネ大いに泣く(1985年)』が映画ジャーナリズムで不評だったので、怒り心頭に発して、急遽、「鈴木清順の世界」という特集を組んだり、当時、まったく忘れられていた伝説の喜劇映画作家プレストン・スタージェスの小特集を組んだりもしました。
この時期で特筆すべきは、やはり角川映画の出現ですね。テレビCM、出版を巻き込んだメディア・ミックスによる大攻勢が当初、批判された角川映画が、80年代に入ると、質的にも優れた作品を作り始めるからです。相米慎二監督が『セーラー服と機関銃(1981年)』で大ヒットを飛ばし、『野菊の墓(1981年)』でデビューした澤井信一郎監督が『Wの悲劇(1984年)』を撮るといったぐあいにね。80年代の前半の日本映画においては、相米、澤井というのは、作風や対極にありながらも、最も注目されていた存在で、お互いも密かにライバル視していたと思います。ちょうど、相米監督が『魚影の群れ(1983年)』を撮った時に、僕は、二人の対談を企画したんです。論客だった澤井さんが、なぜか断ってきたので、実現しなかったのは残念でしたけどね。それと、今をときめく黒沢清監督の『ドレミファ娘の血は騒ぐ(1985年)』が日活でオクラになりかけたので、この映画の製作ノートを二号続けて掲載し、徹底擁護する論陣を張ったことも思い出されます。こういうふうにその時々で起こった事態に、すばやく反応するジャーナリスティックな感覚も、月刊誌には必要とされるんですね。
(牛田)ラピュタ阿佐ヶ谷での今回の企画は、俳優の荒木一郎さんを取り上げていますがどういった意図だったのでしょうか?
(高崎)荒木一郎はシンガーソングライターとしては紛れもない天才です。武満徹が作曲した恩地日出夫監督の名作『めぐりあい(1968年)』の主題歌は、作詞が彼で、冒頭に彼の歌が流れますが、せつないまでのロマンティシズムが素晴らしかった。「いとしもマックス」をはじめスタンダード・ナンバーもいっぱいありますが、映画俳優としてもとても魅力がありました。

大島渚監督が『日本春歌考(1967年)』で高校生の役で荒木を起用していますが、共演した伊丹十三(当時は一三)や吉田日出子を完全に食っていました。その前に出演した中島貞夫監督の『893愚連隊(1966年)』での、飄々とした存在感がなんとも印象的でした。中島監督の『現代やくざ・血桜三兄弟(1971年)』や『ポルノの女王・にっぽんSEX旅行(1973年)』などの荒木一郎は、白々しさや空虚感といった時代の空気を最もヴィヴィッドに体現し、アメリカン・ニューシネマのピーター・フォンダやジャック・ニコルソンに匹敵する、いや、それ以上の魅力がありましたね。その不敵さに満ちた存在感は時代を軽々と超える普遍性を持っていると確信していましたが、案の定、フタを開けてみたら、大成功で、とくに女性の観客が多くて、びっくりしているんですよ。楽日には、評判を聞きつけて、荒木さん本人が来館しましたが、場内が異様な熱気に包まれ、<不良オーラ>を発散する荒木さんにあらためて感服しましたね。でも、観客の反応を見ると、たとえば『〇課の女・赤い手錠(1974年、野田幸男)』なんかは、爆笑しているんですね。どうも今の若い世代には、70年代の東映映画って、ラス・メイヤーのエロ映画みたいな<キッチュ感覚>で見られているようですね。僕はリアルタイムで見て、感動していたから、ちょっと複雑な感じだけど。
- 2007年01月19日

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