映画書籍編集者 高崎俊夫インタビュー(2)
(牛田)どこが新しくなったんですか。
(高崎)ひとつは、「読者の映画評」という頁を作って新人を育成したことです。ここから秋本鉄次さん、藤田真男さんなど何人かの映画評論家が生れました。特に藤田さんは、当時、無視されがちだった邦画のマイナーな作品を擁護する優れた批評を書いていて、それを読んだプロの評論家があわてて、そのよさを後追いで発見するというような逆転現象すら起きていました。
(牛田)具体的な例などあったら教えて頂きたいんですが。
(高崎)藤田さんは、当時、「『野良猫ロック・セックスハンター』の論理と構造」という見事な評論を書いていて、それを読んだ渡辺武信さんが、文芸坐オールナイトの<野良猫ロック特集>を見に行って、感激してエッセイを書いたなんていうケースがありました。また、1972年には、神代辰巳監督の『一条さゆり 濡れた欲情(1972年)』がキネマ旬報のベストテンに入り、伊佐山ひろ子さんが主演女優賞を受賞するんですが、ロートルの映画評論家が「権威のある『キネマ旬報』がポルノ女優を選んでいいのか」って怒って審査委員をやめてしまうような時代でもありました。日活ロマンポルノにしても、逸早く熱狂的に支持し、エールを送ったのは、こうした読者や若い書き手たちだったんです。この時期の『キネマ旬報』で、自らの旧態依然とした伝統に反逆するようなダイナミックな誌面作りを試みたことは高く評価されるべきだと思いますね。
(牛田)評論家では誰がお気に入りだったんでしょうか。
(高崎)僕は山田宏一さんに一番影響受けました。彼の最初の映画評論集『映画について私が知っている二,三の事柄(1971年、三一書房)』を読んで、深い感銘を受けて、生涯、最初で最期のファンレターを書いたんです。そしたら山田さんから返信がきて、励ましの内容でしたが、今でも大切にもっています。その後、山田さんは二冊目の評論集『映画 この心のときめき(1976年、白川書院)』を贈ってくれたんです。これにもすごく感動しましたね。
(牛田)山田宏一さんの文章では、どんなところに影響を受けたのですか。
(高崎)難解と言われたゴダールと娯楽映画の名匠マキノ雅弘の魅力を、まったく同じ平易な言葉で語ってしまうことに心底、驚いたんです。当時、そんなことをやった人は誰もいなかったし、まさに画期的な映画評論が出現したと思いました。蓮實重彦さんが、同じような方法論を武器に登場してくるのは、実は、それ以後のことなんです。山田さんは、70年代前半に、自ら批評家失格宣言をして『キネマ旬報』の「シネ・ブラボー!」を中断してしまうのですが、この連載は、映画時評としてもエポックメーキングな内容を備えたもので、いずれ、本にまとめるべきだと思いますね。具体的にいいますと、たとえば、藤田敏八監督の『赤ちょうちん(1974年)』という作品の甘ったれた青春ごっこを、山田さんは、花田清輝の『復興期の精神(1946年、我観社)』の「女の論理」というエッセイを引用しながら批判するんです。また、当時、ハリウッドで蔓延していたノスタルジー・ブームをスーザン・ソンタグの「惨劇のイマジネーション」というエッセイを踏まえて批判した一文など目が覚めるほど刺激的でした。やがて、70年代の半ば、竹中労さんの「日本映画縦断」の連載打ち切りに端を発し、白井さんが編集長を解任される事件が起きて、『キネマ旬報』も元のつまらない官報雑誌に逆戻りしてしまうんですが。
それと、この時期で、忘れてならないのは、サブカルチャー誌『話の特集』で、鈴木隆という優れた編集者の発案によって、山田宏一さんの『友よ映画よ(1974年、話の特集)』、蓮實重彦さんの『シネマの煽動装置(1985年、話の特集)』というふたつの重要な連載が始まったことです。映画専門誌以外のところで、むしろ刺激的な映画評論が読めるという皮肉な流れは、このあたりから加速することになるわけです。
- 2007年01月19日
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