映画監督 中島貞夫インタビュー(5)

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牛田: ライバルって誰か意識してましたか?



中島: あんまり意識してないんだよね。勝手なことやっているからね。ヤクザ映画やっている時にはそこにはいろいろな人がいるでしょ。エロ映画やっている時にはまた別のひとたちがいる。こっちやっている時の対象とあっちやっている時の対象って違うんだよね。ちょっとエロ映画やろうとすると当時の日活の連中とかね。あちらの方々は真面目にやっているんだけど、こっちは艶笑喜劇的にやってたりしたからね。ヤクザ映画のなかでも任侠ものは嫌だから一、二本やって逃げ出しているからね。ある時期はいろいろやりあったけど、ライバルっていうよりも兄弟分って感じだね。だからライバルってのはないんですよ。

牛田: 映画は、各会社のカラーがあるわけですよね。そこに東映の監督がそのカラーに近い作品をやられたら、脅威だったでしょうね。


中島: 
ぶっ潰しようがないからね。「やめた」って言ってすぐどっかいっちゃうからね(笑)。
東映京都って一番きついヤクザ映画つくっていて象徴的だったんだよね。石井輝男さんなんかは一番きついエロ映画やっているわけでしょ。妙な空気が撮影所にたちこめていてね。やくざ映画派とエロ映画派とわかれている。監督さん同士もあまり挨拶しないしね。スタッフはもちろんその監督についているから交流しないでしょ。でもこっちだけ両方やっているから平気でどっちのひとたちとも話すしね。例えば石井さん達にとっては僕は話しやすいでしょうし、小沢茂弘さんでも平気だしね。とういうような感じで生きてきてるからね。ただ10年くらいは鶴田浩二とは話しないというようなことはあったけどね(笑)。



牛田: 中島監督はなぜ任侠映画嫌いなんですか?



中島: 任侠そのものは嫌いじゃないよ。例えば『飛車角(1963年から64年にかけて尾崎士郎の原作から飛車角を主に取りあげ脚色した鶴田浩二主演の任侠シリーズ)』だとかそういうものはものすごい好きですよ。ただあの人間関係を楯に使うという発想が僕らの中にはないんだよね。天皇陛下とか親分のためにとかね、それやっているうちに嫌になってきちゃう。



牛田: 終戦のときおいくつだったんですか?



中島: 11歳かな。



牛田: 今まで軍国主義だったものがある日突然かわるわけですよね。そのときどんな気持ちでしたか?



中島: 簡単にいうと、終戦の日は涙を流してね。親父がその前年に戦争で死んでいる。その時「日本男児は、戦争で親父が亡くなっても泣いてはいけない」って教育されていたから泣かない。だけど日本が負けたって日は泣いているよね。泣いたってそのときの感情のおもむくままに泣いているんだけど・・・。終戦までは、毎日学校に行くときに竹槍と鍬かついで、裸、裸足で通っていたんだけどね。まあ学校たって学校ないんだよ。軍隊にとられているから。
なによりも怖い人が一瞬いなくなったって感じは大きかった。「わあーっ」ていう解放感みたいのはあったよね。でも日常が一気に変わるってことはありえないし、食べ物もなんにもなかったしね、着るものもね。物資はとことんないわけだから。で、教室戻ってみたら兵舎でつかっていたから机もなにもない。そういうなかで自分たちなりのことをするんだけど、勉強にはならんわね。小学校の4年から中学の2年くらいまでほとんど勉強してないよ。
6年生になって新生中学ができるからって、僕らの1年前までは中学入るために勉強しているんだけど、それもしてない。新生中学のシステムができるんだけど、教室もなにもなくて、小学校の講堂借りてやったりするから、みんないなくなる。男の子なんてね、逃げ出して。で、そのうち中学つくるからってことで、俺らで校庭つくろうって土運んだりしてね。そんなことしてたから、勉強をするっていう癖がいっさいなくなっていて、いかに授業をサボるかっていう知恵は長けてきたけど(笑)。それで高校はいるときにはじめて勉強し始めた。



牛田: 先ほどもはなしていたようにある日天皇を崇拝しなくてもよくなるってことと、先生が仁侠映画好きでないのとつながるんですか?



中島: 要するにもう縦関係もういやになっているね。それが終戦のときの問題とは別で、自分の生き方のもんだと思うけどね。

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