映画監督 中島貞夫インタビュー(4)

牛田: この三人の一人でも欠けたら今の中島監督はいませんか?
中島: それはどうかな(笑)。ただマキノの親父のアンサンブルの撮り方なんてすごくうまいよね。学生の時、芝居の演出したけどね。ああはなかなかいかないね。
長屋の衆をポンポン台詞割ってね。つくっていくプロセスなんてすごいよ。現場の演出力はマキノの親父から一番勉強になったね。役者をのせたり、おとしたり、「アホー」って怒鳴ってみたりね。ちょっとおだててみたり。
牛田: やはりマキノ監督ですか。
中島: そうね。田坂さんは先生って感じだったね。マキノ監督は親父さんですよ。我々の世界ではね。後半はマキノ監督のことは親父さん親父さんって呼んでいたからね。
牛田: 師匠というより親父さんですか?
中島: そう親父さん。つまりヤクザの世界で親分のことを親父さんっていうんだよね。あれだな。(大爆笑)
田坂さん今井さんは「先生」、「お師匠さん」なんだけどね。
今井さんは取材の重要性をさんざん言われましたね。だから学生にも、「知る」ということを前提条件にしている。知ったうえで取捨選択すればいいんであって、知ったうえで演出的に変えていくのはいいんだけど、知らんでやったらあほがやってね。笑われるよって。これは今井正にさんざん言われたことなんだけどね。
牛田: 最近のもので、取材が反映されている学生の作品ありますか。
中島: ありますよ。中国からの留学生の作品で、戦中の内田吐夢さんの新しい資料がでてきたりしていてね。なんで内田吐夢さんが、あの時代を語らなかったのかよくわかりましたよ。
牛田: 戦後、『血槍富士』まで時間かかっていますよね。
中島: 吐夢さんが日本に帰ってきたのは僕が高校2年か3年の時ですよ。当時芝居ばっかり見ていたんだけど、千葉の公会堂で中国の芝居やってた。それ見に行ったら、そこへ挨拶に吐夢さん来て、「内田吐夢、ただ今かえって参りました」って。後で吐夢さんにその話したら「おーあの時、お前いたのか」って言われてね。
- 2006年10月20日
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