映画監督 中島貞夫インタビュー(1)

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職人映画監督、中島貞夫監督にインタビューしてきました。私の友人であるモンゴルからの留学生、ドキュメンタリー監督、阿金(あじん)さんの師匠でもあります。このインタビューは阿金さんのおかげで実現することが出来ました。初めてお会いした中島監督のオーラに古き時代の映画監督像をみました。
今年の夏、ラピュタ阿佐ヶ谷で企画された「荒木一郎ナイト」で、荒木氏が中島監督のお話をしてました。会社側から『ポルノの女王 日本SEX旅行』という題名に決められた時、中島監督は「荒木申し訳ない」とわざわざ言いにきたとのこと。泣けました。そのお話は、役者と監督との信頼関係も読みとることが出来ます。映画監督が自由に題名を決められなかった頃の時代です。そんな時代、中島監督は最前線で映画を作ってました。



牛田: 大阪芸術大学に教えにいらしたのはいつごろからなんですか?



中島: 初期からではなく、80年代からですよ。



牛田: 映画監督として多くの作品を世に出してきた中島監督が学生を育てるという場に来たのはどうしてですか?



中島: 大阪芸大には、暇な時に来てくれればいいからって。それじゃまあ土曜日ならって、二週間に一回ぐらいなら来れるなって。
当時撮影が入っても一週おきに休みになった頃でね。それならまあ席だけ置いておきましょうってね。来てみると大変なことが徐々にわかりだしたんだけど。
特にフィルムで教育したほうがいいって主張してね。言い出しっぺだから、やらないといけなくてね。それで始めました。
その頃、大映京都撮影所が潰れてしまっていたから、こちらでの先生の人材は東映なんですよ。だから今でも東映方式なんですよ。ただそれも枯渇してきて、今年から東京から来てもらっているんだけどね。



牛田: プロのスタッフの方々や、機材を集めてくるのは大変だったのではないですか。



中島: 教えにくるまで、そんなに重く考えていなかったんだけど、主に各撮影所がやっていたでしょ。ここは教育機関だったからね。
僕の頃は撮影所に入ることが映画を勉強する最短の場所であり最高の場所だったんですね。
だから映画をやろうと思ったら、どっかの撮影所にもぐりこむしかない。学校教育だと日芸とか今村さんの日本映画学校とかあるけど、学校での教育というのは主ではなかった。
いま振り返ってみると、教えるようになった20年ぐらい前から撮影所システムというのが崩壊してしまうんですね。そうすると撮影所は教育の場にならなくなった。撮影所の場所が線ではなくて、点になってしまった。ぽつんぽつんって感じでね。だからそのころから本当に撮影所で人材の教育ができなくなっていく。それでアメリカの例をみていて、日本も大学で教えなくてはならない時代になったんだなと思ってね。それならそれで本腰いれてやらないといけないと。たまたま16ミリのキャメラをテレビ局が放出する時期だったのね。そこからかき集めてね。

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