安西水丸 インタビュー(2)

anzai.jpg

――安西さんは日芸の美術学科造型コース(現在のデザイン学科)のご出身ですが、まず、なぜ日芸に入ろうと思ったのか、お聞かせください。


安西 僕は、父親が建築家だったので、家に建築関係の本がいっぱいあったんです。そこでバウハウスの存在を知って、かっこいいなと思っていたら、日芸の美術学科の主任教授がバウハウスに留学されてて、それで決めたんです。大体絵を描く人はみんなそうなんだけど、最初は芸大に行こうと思うんですね。だけどデッサンの研究所に行って合格者の絵を見たらあまりにも上手いので、これはもう無理だと思って(笑)。それで僕でも入れるところはないかと調べていたらそのバウハウスという言葉に引っかかったんです。



――日芸には、バウハウスという言葉に一番惹かれて入ったということですか?

安西 そうです。バウハウスはカンディンスキーとか凄い人たちが教鞭をとっていて、ドイツで新しいデザイン運動をしたんですが、そういうものに憧れたんですね。僕が高校生の頃はまだ日本ではグラフィック・デザインとかイラストレーションは一般的ではなくて、建築史の中におけるバウハウスがあまりにも輝いていたから、それに魅了されたんです。ただ、個人的見解ですと、入学したらバウハウスとは何の関係もなかったですね。まあ結局、騙されたってことですけどね(笑)。



――安西さんと日芸の縁はそうやってはじまるんですね。当時日芸は四年間江古田校舎ですが、安西さんは東京のご出身ですよね。

安西 そうです、赤坂です。丸ノ内線で池袋に出て、そこから西武池袋線で通ってたんですが、試験を受けにきた時にまず、こんなところで四年間過ごすのは嫌だな、と思いました(笑)。他の美大も見学しましたが、一番設備も悪くて、学生も不真面目そうで、そういうところが僕に合ってるな、とも思ったんですが、江古田は嫌でしたね。池袋がまず用事のないところですからね。いつも授業が終わるとすぐに銀座に出て、あの辺で遊んで帰りました。



――なるほど。日芸のような都市型の芸術大学は、もうちょっと真ん中に出た方がいいんでしょうかね。



安西 そうです。仕事する場所や勉強する環境というのは非常に大事ですから。でも僕はその後十二年間講師をしていまして、その頃は江古田もちょっと面白いと思いましたよ。



――そういえば、安西さんは最近まで日芸で教鞭をとっていらしたんですよね。


安西:三年くらい前までやってました。


――どうして辞められたんですか?


安西 つまらないから辞めたんです。学生が不真面目だし、何の勉強もしないし、入りたくて入ったはずなのに学校には来ない、課題も出さない。一体どうしてでしょうね? 僕は学生時代、課題は全部出しました。学校はつまらなかったけれど入りたくて入ったわけだからちゃんと勉強もしました。4年間もの自由な時間があって、一応学生という身分を与えられていたというのは良かったと思うし、美術大学ということで周囲もそういう目で見てくれたというのもあるし、さまざまな意味で日芸に入ったということは良かったと思います。



――当時は大学のアトリエにこもりきりで作品を作っていたんですか?


安西 そういう貧乏臭いというか、田舎臭い学生もいましたね(笑)。僕はそういうのが嫌だったんで、終わるとすぐに帰って自宅でやってました。友達もいましたけど、東京の下町の職人の子が多かったですね。といっても四、五人かな。僕は割と大人しい学生で、派手なこともしなかった。ただ自分のやるべきことをやって卒業しようと思ってたので、淡々と目立たずやってました。だから先生も僕のことは知らなかったと思います。僕はたまたま電通に就職が決まったんですが、その頃、研究室の前を通ったら中から「この電通に入った渡辺(※安西さんの本名)ってやつはどんなやつだっけ?」という声が聞こえてきたんです(笑)。でもそれでいいんですよ。先生に知られなくても別にいいんです。


――しかし今ではデザイン学科出身者の顔としてご活躍ですよね。


安西 そうですか? 嫌ですね(笑)。よほど無能な学生を合格させているんでしょうね(笑)。まあ、僕は大人しくやってはいましたが、自信だけはありましたよ。


――具体的にイラストレーターになるという夢は大学生の頃からあったんですか?


安西 ええ、それは中学生のときからありました。僕はグラフィックデザインを勉強していたんですが、全てはイラストレーターになるための勉強でした。だから電通に入ったこともニューヨークに行ったことも、その後平凡社に入ったことも、全てはいずれイラストレーションを描くためでしたね。それに芸術学部というところには芸術かぶれみたいなのが多くて。芸術家はいいんだけど、芸術かぶれほど世の中に迷惑なものはない(笑)。僕は最初からきちんとした会社に入ろうと思ってました。要するにいずれフリーランサーとしてやっていくつもりなら、世界に通用する企業の入社試験くらいパスできないようじゃ駄目だと思うんですよね。みんなサラリーマンを馬鹿にするけど、じゃあ何処かの会社を受けてみろと言ったら受からないでしょう? それに大きい会社だったら、落ちてもそんなに恥ずかしくない(笑)。まあ僕は受かる自信がありましたが。(笑)



――日芸の場合、昔から、大きい会社に就職するのは写真学科の方がカメラマンで、というのがあるんですよね。



安西 僕と電通に一緒に入った中にも写真学科出身はいましたね。でも僕の頃にはデザイン学科も結構多かったんですよ。たぶん電通の偉い人が日芸で教えてたから、そういう幸運もあったんでしょうね。卒業制作もみんな優秀といわれている学生同志で組みたがるんだけど、僕は今から思えば僕がいなかったら卒業できなかったような学生を集めて作った。でも出来上がったものは「アイディア」や「宣伝会議」にも取り上げられました。そんなものですよ、実力ってのは。(笑)



―卒業制作はどういう作品を作ったんですか?



安西 僕の頃は、グループ制作と個人制作がありまして、グループ制作は公共物に対する提案、例えば時刻表とかです。僕は健康診断書を改訂してみようと思いました。健康診断書っていかにも病人臭いじゃないですか(笑)。だからもっと健康的にしようと思ったんです。そうしたらこれが結構評判が良かった。個人制作はイラストレーションを描きました。「オーシャンと11人の仲間」という映画が好きだったんで、それをイラストレーションで描いたんです。タイトルに「たち」を加えて少し文学性を出そうと「オーシャンと11人の仲間たち」として描きました。それも雑誌に載ったんです。僕はずっとイラストレーションの勉強はしていましたが、実際に自分の描いた物がどのように評価されるのかはわからなかったから、雑誌で取り上げてもらったときは正直嬉しかったですね。



――最初に安西さんが評価されたのが、その卒業制作なんですか?


安西 評価されたのかどうかはわからないけど、東京の美大の卒業制作の中から選ばれたってことは、それなりに良いと思ってもらえたんでしょうか。当時「アイディア」など、デザインの雑誌は少なかったし、そんなこともあって、こういうのに載ったら嬉しいなあ、と毎年見てたんで、ちょっと嬉しかった。

トラックバック

トラックバックURL:

コメント

コメントする

(文化会議 にはじめてコメントされる場合、不適切なコメントを防止するため、掲載前に管理者が内容を確認しています。適切なコメントと判断した場合コメントは直ちに表示されますので、再度コメントを投稿する必要はありません。)

comment form