映画評論家 波多野哲朗インタビュー第一部 (8)

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では、二誌は既存の映画雑誌に較べて何が新しかったのでしょう。とは言っても、『季刊FILM』と『シネマ』とは同じではありません。あえて共通する点を探せば、長文の本格的な映画批評が掲載されていたこと。とくに私たちの場合、まず30枚に届かない短文の批評を載せることは滅多になかった。それから二誌ともに、理論への関心が高かった。またともに海外の映画の動向に敏感であったことなどが挙げられるでしょうか。それにしても『シネマ』の場合、ジャーナリズムで話題になるような名の知られた書き手はほとんど登場しませんでした。cinema2.jpg 書き手のブランドによって雑誌を売ろうという魂胆などまったくなかったし、また名の売れたプロの書き手に原稿料を払うお金もなかったからでした。しかしこの雑誌には、並外れた力量を持つ何人かの書き手が、いつもほとんどボランティアのように協力してくれたのでした。その一人が蓮実重彦でした。いまでこそ誰もが知る高名な人ですが、当時フランスから帰国して間もない蓮実の名を知る人はほとんどいませんでした。彼は『シネマ69』の創刊号のためにアラン・レネに直接質問状を書き、レネの回答を引き出してくれました。また「鏡を恐れるナルシス」と題する長論文を執筆し、以来『シネマ』の常連執筆者として本格的な映画批評活動を開始したのでした。それからもう一人、常連執筆者に上野昂志がいました。上野は漫画雑誌『ガロ』の「目安箱」というコラムを毎号執筆していましたが、彼もまた知られた書き手ではありませんでしたが、『シネマ』にはじめて長い映画論を書いて、本格的な映画批評活動を開始したのでした。それから、フランス映画社の柴田駿と川喜多和子はずっと『シネマ』の強力な支援者で、柴田は毎号フランスの映画事情を書いてくれました。何度も言うようですが、『シネマ』(誌名は年を追って『シネマ69』『シネマ70』『シネマ71』と変化)は3誌のなかで最も地味な雑誌でした。

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