映画評論家 波多野哲朗インタビュー第一部 (7)

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『シネマ69』は、波多野哲朗、手島修三、山根貞男の3人の編集委員で出発しました。資金は私が調達しました。当時の雑誌の奥付には「シネマ社」と記していますが、もともと会社ではなく、「編集委員会」といった名称が嫌で、便宜的に使った呼び名でした。私の住んでいた団地の2DKがその所在地でした。編集会議はたいてい喫茶店でやっていました。同じ映画雑誌と言っても、『季刊FILM』のような物理的な基盤も財政的な基盤もないちっぽけな集まりだったのです。しかしなぜか、志だけはおそろしく高かったのです。最後まで同人雑誌で終る気は毛頭なく、やがては3人がこの出版の仕事で食べていけるようにしようなどと言っていました。また内容としても、従来の映画雑誌の批評を超えようという意気込みをはっきりと持っていました。とは言え、創刊号を4000部も刷ってしまったので販売がたいへんです。cinema70.jpg 毎日私のボロ車にいっぱい雑誌を積んで、大きな本屋を一軒一軒訪ね、本を置いてくれるように頼んで歩きました。しかし意外に反応はよかった。新宿の紀伊国屋書店ではなんと平台に置いてくれて、発売日の1日だけで50冊も売れたのでした。新宿文化劇場にも置いてもらい、ここでも50冊。新宿だけで映画雑誌が1日に100冊も売れるというのは、いまではとても信じられないことです。むろんここには幾分ラッキーな面もあったのでした。『シネマ69』は地味で目立たない映画雑誌でしたが、はるかに大規模で豪華な映画雑誌『季刊FILM』に続いて創刊されたために、多くの大新聞がこれをひとまとめにして「新しい映画批評の波の到来」として、大々的に報じてくれたことでした。そのおかげで『シネマ69』は、一つの広告も出さないままに、一挙にその名が知れわたってしまったのでした。

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