映画評論家 波多野哲朗インタビュー第二部 (6)

牛田: 映画評論というのは、試写で見て、書くというものではないですか。やはり、1回みた中で評論を書く、というのは大事でしょうか?
波多野: 何回も見ることはいいことだと思います。もしそれが許されれば。ただし、映画の運動性を解体して、たんなる写真論に還元してしまうような議論は、それと同じことではありません。それは水(H2O)について語ろうとする人が、水素(H)と酸素(O)について語っているようなものです。それはともかく、たとえ同じ映画を10回、20回と繰り返し見たとしても、私は最初にそれを見たときの素朴な驚きを残しておきたいと思います。私はいまヒッチコック映画の作品分析をしていますが、むろん何度も見ているうちにあの独特のスリリングな恐怖感はなくなります。しかし私は、あのスリリングな恐怖感というのが一体何であったかを知るためにこそ何度も見ていたのであって、けっして恐怖感を忘れるために見ていたのではないということです。
牛田: 波多野先生の後ろには、観客がいるわけじゃないですか。観客の見た1回と、先生の見た1回、おそらくそこにインスピレーションはあると思いますが、先生が10回見て書いたのと、観客が1回見たのでは、違いがあると思います。
波多野: たしかに違います。でも僕は、自分が見た最初の映画体験を殺さないで、印象を語ります。私には映画体験というものを、知的な研究者や専門家にのみ固有な体験として限定したくないという願望があります。はっきり言うと、それは映画を学問の対象としてのみ位置づけたくないということです。たしかに鑑賞体験に質的な違いがあることは認めますが、かと言って観賞体験のヒエラルキーを作ることには反対なのです。
- 2006年06月30日
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