映画評論家 波多野哲朗インタビュー第一部 (6)

60年代の終りから70年代のはじめにかけて相次いで登場した3つの映画批評誌『季刊FILM』『シネマ69‐71』『映画批評』は、それぞれ性格は違いながらもそれまでの映画雑誌にはなかった新しい批評の在りようを打ち出していたと思います。先陣を切ったのが草月アートセンターの『季刊FILM』でした。編集委員は粟津潔、飯村隆彦、武満徹、勅使河原宏、中原佑介、松本俊夫、山田宏一。美術・デザイン・音楽の注目すべき3人ビッグネームを加えたこの編集委員の構成が、すでにこの雑誌の理念をよく表現しています。総合芸術あるいはアヴァンギャルドとしての新しい映画像です。4人の映画人もまた、作風の前衛性・実験性で知られた人たちで、しかも欧米の新しい映画事情に精通した人たちでした。じっさい、掲載される評論にもヨーロッパの映画批評誌なみの本格的な論文が多く、それまでの映画ファン向け映画雑誌とは明らかに違っていました。ちなみに、私がはじめてクリスティアン・メッツの論文を読んだのもこの雑誌でした。装丁はモダンで、質量ともにたいへん豪華な映画雑誌でした。 この雑誌よりすこし遅れて登場したのが、私たちの雑誌『シネマ69』でした。なぜ「私たちの雑誌」なのか?
ここで『シネマ69』の話をする前に、草月アートセンターに勤めていた私が、なぜ『季刊FILM』ではなくて、『シネマ』という雑誌を出すことになったのかについて、ちょっと私的な話をさせてもらいたいと思います。1968年のころと言えば、60年代中葉からいろんな領域ではじまっていた意義申し立てや反体制の運動がまさに最盛期をむかえようとしていた時期です。その中心にはいうまでもなく全共闘を中心とする激しい反体制運動があったのですが、そうした運動体にほとんど関与しない多くの人々の心情にも、反権威的・反権力的なムードは濃厚に漂っていました。知識人たちも例外ではありません。とくに万国博覧会 EXPO’70の開催については、賛否両論に意見が分れてはげしく対立していました。そのころ私は知り合いの写真家中平卓馬に誘われて、反万博の会合に出るようになっていました。多木浩二らもそこにいました。ところが私が勤務する草月アートセンターに関係するアーティストたちのほうは、ほとんどが万博の中心的な担い手でした。これには驚きました。彼らが、彼らにとっての絶好のビジネスチャンス到来という理由で万博の仕事をやっているのならばまだよかったのですが、万博の掲げるキャッチフレーズ「人類の進歩と調和」というイデオロギーと自分らの仕事とが、あたかも意義として一致しているかのように喜んでいる人たちに、私は憤りを覚えずにはいられませんでした。しかし私にとってやはりいちばんショックだったのは、アーティストの中でもとくに前衛的な人たちが、他の人たちにも増して、みずからの前衛的な主張と国家プロジェクトの未来幻想とを積極的に重ねようとしている事実でした。日本の前衛というのはそんなものだったのか・・・と。60年代の草月アートセンターは、私にとって実に刺激的な場であったし、とても楽しい職場でした。しかしこんなことから次第に息苦しくなって、とうとう草月をやめてしまったのでした。
- 2006年06月30日
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