映画評論家 波多野哲朗インタビュー第二部 (5)

牛田: 私はカナダに留学していたので、日本ではほとんどされていないような、アメリカ映画、スピルバーグやハリウッド映画の研究がなされているのをよく見ています。すでに英語で読んだものが、再生産のように単に日本語で書かれていて幻滅したことがあるんですが。
波多野: 日本の映画研究に、欧米の映画研究の直輸入あるいは模倣が多いということですね。その通りだと思います。情報化社会ですから、それも早ければ早いほど値打ちがあるという訳で、すぐにコピーが作られる。 ところで、映画について語ることの難しさというのは、「引用ができない」ことに尽きると思います。小説や詩の言葉を、そのままみずからの文章に引用できる文芸批評とは異なって、映画批評は映画をみずからの文章に引用することは出来ません。文章によって映画についてなにごとかを語り始めるとき、その映画とはすでに映画の記憶でしかありません。たとえばいま見たばかりの映画について、いかに丁寧に言葉で記述しても、それはむろん映画の再現ではなくて、言語による映画の記憶の再構築でしかありません。映画はこうである、といった途端、それはもう映画ではない、映画の記憶について語っているんです。
牛田: 私の場合、何回も見て、聞いて、それで引用するようなことをしてしまうんですが、それとは違う次元の問題として?
波多野: ええ、何度見ても同じです。映画を引用することはできません。その都度記憶は更新されますが、記憶であることに変わりありません。映画の批評には、しばしば映画のスチール写真がはいっていますが、これは写真であって映画とは言えませんからね。あれは映画の記憶を呼び覚ますための手段かも知れません。かつて映画記号論が全盛期を過ぎたころ、フィルムをビュアーで1コマ1コマ止めて作品を分析していた学者がいました。画面の記号学的分析のためにそうしていたのですが、これが映画なんだろうかと私はいぶかしく思いつつ眺めていました。むろん、研究ですからなにをやっていけないというものではありませんが、私たちが映画と呼んでいるあの体験から、なんと隔たっていることか。
- 2006年06月30日
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