映画評論家 波多野哲朗インタビュー第一部 (5)

ああ、話を批評のほうに戻しましょう。60年代の映画批評は、こうして『映画芸術』と『映画評論』の2誌を中心に展開したと言って差し支えないと思います。しかし60年代も終わりごろになると、この2誌も次第に元気がなくなってくる。なぜそうなったのか。『映画評論』の場合は、明らかに批評の基盤をあまりに狭めてしまったことが原因であったと思います。この雑誌が果敢に肩入れした映画たち、それらはおもに新宿文化や蠍坐でかけられる映画であったり、公会堂や公民館で上映される自主公開の映画であったり、草月ホールで公開される実験映画であったり、あるいは大学キャンパスを巡回する映画であったりしました。しかしこれらの非商業的映画を観ることができた人たちは、日本全体から見ればごく限られた一部の人たちでしかありませんでした。
60年代の新宿や澁谷を席捲した文化と風俗の波、その背後にはたしかに反権力的な精神、異議申し立ての精神、サブカルチャーの精神、実験的な精神、野次馬的な精神が渦巻いていて、それは大なり小なり60年代の日本全体の文化状況でもあったと言えるでしょう。しかしその文化的な意義はともかく、映画を見るという最低の基盤なしに映画批評は成立しない。その意味で『映画評論』という雑誌は、若い映画作家たちとある種の感覚や精神を共有しながらも、ついにセクト性を抜け出せなかった。一方『映画芸術』のほうは、小川徹が自分の批評の方法として「裏目読み」を看板にしていただけあって、映画のレクチュール(読み)に関しては一枚も二枚も上だった。ただ、いま振りかえってみると、あの面白かった批評には、最初から言いたいことが先験的にあって、それを映画にかこつけて語っているようところがあったと思う。ぼくはこの種の批評を「引っかけ批評」と呼んでいるのです。映画を見ていると、それまで論者の中で眠っていたいろんな思考や感覚が触発されて、それらが言葉を生み出していく。だから批評の言葉にはいつも勢いがあって、読み物としてはじつに楽しかった。でもそれは映画そのものについて語っているのではないから、語れば語るほど映画からどんどん離れていくんですね。そして無理にそれを映画に関係づけようとすると、限りなく映画の恣意的な解釈へ 、極端な深読みへと陥っていくんです。私たちは、もっと映画そのものについて語りたかった。
- 2006年06月30日
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