映画評論家 波多野哲朗インタビュー第二部 (4)

牛田: 大学生のときに、小川さんの助監督をされていた福田克彦さんにずっと教えてもらっていました。福田先生は、映画監督というよりも、ジャーナリストなんだなという印象を受けたんですね。波多野先生は、映画評論家として、もし一緒にくっついているのなら、それに対して加担する、というのはあるんですか。
波多野: ありますね。ドキュメンタリーの公共性、中立性というのをほとんど信じていませんから。たとえば各放送局のカメラは、衝突のさなかでも、みんな機動隊に守られた安全な場所にしっかりカメラを据えて、あたかも中立であるかのように上から撮っている。そしてその映像が茶の間のテレビに流れるのです。そんな曖昧な映像が中立だなんてとんでもない。CNNのバクダッド攻撃の映像がニュートラルでないのと同じです。それに対して小川プロの場合は徹底して、抵抗する農民の側から、機動隊に攻められている側から撮っている。その意味では一方的です。しかし、かと言って恣意的ではないのです。小川の映像には、空港反対同盟から寝返った人たちも登場するし、発言もする。中立の意味が違うのです。これは水俣を撮り続けた土本典昭の場合にも言えます。土本は一貫して水俣病の被害者の側に立っている。しかしそのカメラは、水俣病の補助金で豊かになって、立派な家を建てて住んでいる人も映している。それを映すことは、現実的な政治の尺度から見ればマイナスかも知れない。でもこれらの映画には、現実的な尺度には還元されない映画としてのモラル、あるいは愛があるのです。
牛田: 体験していくということと、評論・言葉との折り合いは、どうやってつけるんですか?
波多野: 問題は言葉のあり方だと思います。体験をそのまま言葉にすればいい、というほど事は単純ではありません。言葉は体験に根ざして入るが、体験は体験、言葉は言葉です。体験を言葉に置き換えるにしても、体験のすべてが言葉に還元できるわけではありません。それどころか、体験すればするほどかえって言葉になりにくいということさえあります。映画体験と映画批評との関係も同様です。大学という世界には、明らかに映画が嫌いな映画研究者がざらにいます。映画体験は乏しいのに、映画に関する文献をまとめる力量と一定の表現力・筆力とがあるので、それなりにサマになる論文が書けてしまうのです。一方、映画をあまりに深く体験したばかりに、言葉にならないその体験にいつまでも向き合って、逆に論理的に破綻することもあるのです。だから大抵はそういう危険を回避して、ありきたりの方法で、ありきたりの言葉で論文をまとめてしまうのですが、アカデミズムではときにそんなものが通用してしまうことがある。すくなくともバランスがとれていて、破綻だけは免れているからです。 しかし、真の新しさに挑むというのは、一種の賭けです。体験から新しい言葉を紡ぎ出すということは、結局はそういう危険ないし不幸を引き受けることなんじゃないでしょうか。言葉というのは完結した記号の体系ではありません。つねに意味が生成されていく側面をもっています。そして、映画について語るということは、まさにそうした瞬間に立ち会う機会を数多く持つことだと思います。問題は、映画体験から紡ぎだされたその新しい言葉が、驚きをもって迎えられる。そんな繊細な感覚が、いまアカデミズムにもジャーナリズムにも失われてしまっているということなんでしょう。情報だけが価値を持っていて。
- 2006年06月30日
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