映画評論家 波多野哲朗インタビュー第一部 (4)

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牛田: 文学者や美術評論の人達が映画評論の分野に入ってくるのは大きなことでしたか。
波多野:  やはり大きな事件だったと思います。まず評論の文章自体が面白かった。そしていろんなジャンルの人たちが論じはじめたことで、批評の幅がぐんと広がったんですね。それまでの映画評論家たちは、「この役者の演技がいい」とか「あの映画のストーリーは解りにくい」とかそんなことばかり言っていたんですからね、まず批評のレベルが根本的に違う。それから、多くの論者たちが新しい映画の出現を今か今かと待ち受けているようなところがあった。だから論者たちは、みんな新しい動向にはとても敏感だった。そしておもしろい動きを見つけると、すかさずパッと書く。そこはさすがに60年代、今日ではちょっと真似できませんね。なによりもこの時代は、いろんな人たちが映画を語ることに貪欲だった。極端に言えば、どんな領域にあろうと知識人であるかぎりは、映画を語ることを避けては通れない、といった雰囲気があった。それは映画がまぎれもなく知の第一線にあったことを証しています。 hatano.jpg 60年代の映画雑誌でもう一つ忘れてはならないのが『映画評論』でした。この雑誌は60年代のサブカルチャーに加担する態度を鮮明に打ち出していました。編集長佐藤重臣は、前衛映画や実験映画、とくにアンダーグラウンド映画の紹介に力をいれ、そうした動きに連動する映画のムーヴメントに対しては、どんなにマイナーであってもそのための評論の場の提供を惜しみませんでした。いきなり個人的な話になりますが、じつは私がはじめて映画の評論らしきものを書いたのがこの雑誌だったんです。アメリカのアンダーグラウンド映画を紹介する文章でした。当時私は草月会館の中にあった草月アートセンターで働いていました。ここは60年代における日本のアヴァンギャルド芸術の拠点の一つでした。マース・カニンガムをはじめて日本に紹介したのも、オノ・ヨーコがはじめて舞台で詩を朗読したのも、世界前衛映画祭をはじめて日本で開催したもの、アメリカのアンダーグラウンド映画をはじめて輸入したのも草月アートセンターでした。アートセンターは草月会館の半地下にあって、頭がつかえるほど天井の低い部屋でした。しかしこの小さな部屋に毎日入れ替わり立ち代わりいろんな人が仕事半分、遊び半分でやってきたものです。植草甚一、武満徹、一柳慧、秋山邦晴、粟津潔、横尾忠則、和田誠、久里洋二、山口勝弘、松本俊夫・・・今でこそビッグネームばかりですが、武満さんは例外としても、当時は一般の人びとが誰でも知っているという名前ではなかったと思います。なによりもいま振りかえって面白いと思うのは、有名であれ無名であれ、そういう人たちがジャンルを超えて日常的に顔をあわせては雑談に興じていたことですね。今じゃとても考えられない。

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