映画評論家 波多野哲朗インタビュー第二部 (2)

牛田: 私なんかは、それにすごい影響を受けてしまって、中国一周をしてきたんですけど。先生の場合は?
波多野: 私の中にも放浪者の血が流れています。はじめての外国旅行は1968年のチェコスロバキア行きでした。まだ1ドルが360円の時代です。しかも外貨割当てが500ドルだから、すぐにお金がなくなってしまう。「プラハの春」のドゥプチェク政権下の「世界青年映画人会議」に招待されたんですが、ひどい貧乏旅行でした。日本海を船で渡って、シベリア鉄道で行ったんですからでね。プラハ郊外の古城が会議場でした。『去年マリエンバードで』に出てくるような古い館で、世界各国からやってきた映画学校の教師や学生たちと一緒に、ろくろく言葉も通じないまま、一週間ほどそこで暮らしました。明日にもソ連の戦車がプラハに再侵入してくるのではないかという緊張の毎日でした。それぞれの国を代表してやってきた人たちですが、ほとんどが汚い格好のジーンズ姿だった。長髪のボサボサ頭で。まさに政治的なムーヴメントとサブカルチャーとが混じり合っていた時代だった。
牛田: やはり、そういった経験があって、都市論に興味を持たれたのですか。
波多野: 以来、世界のマージナルな部分あるいは境界線(ボーダー)を歩き回るというのが、ぼくの旅行のテーマになりました。その最初がチェコでしたが、あのあとすぐにドプチェク政権はソ連によって潰されて「プラハの春」は終ります。都市論をはじめたのは別の理由からですが、いま振りかえってみると、都市を含め好んで長期滞在した場所は、世界のどちらかといえば「周辺的」「境界的」かつ「異端的」なところばかりです。たとえば壁に分断されていた東西ベルリンとか、チャウシェスク政権崩壊直後の銃弾痕も生なましいティミショアラとか、ユーゴスラヴアの都市とか、ソ連崩壊直前のスワネチヤ(グルジア)やグローズヌイ(チェチェン)、ラオカイ(中越国境)、カシミールなどなど。その中にはいま外国人が入れなくなっている危険な場所がいくつもあります。
そう言えば、こうした旅行のはじまりはカシミールだった。80年代のはじめに、カラコルム山中に4ヶ月ほどいたことがあるんです。ここも現在はインド・パキスタンの紛争で、外国人は入れません。私の友人の登山家が、チョゴリサという8000メートル近い山に登ることになって、その撮影をたのまれたのがきっかけでした。それまでのぼくは、実はどちらかと言えば青白い書斎派だったんですが、これ以来身体派になってしまったんです。仲間の登山家たちがみんな帰国したあとも、一人居残って放浪を続けながら、完全にアチラの世界にのめり込んでしまった。そのときのカルチャーショックで、東京での日常感覚までひっくり返っちまったんすね。それ以来です、世界の辺境をうろつくようになったのは。勉強もだんだん怠けるようになって・・・。あのときカラコルムに持っていったたった1冊の日本語の本が、レヴィストロースの『野生の叫び』だった。これがいけなかったんだ、効き過ぎちゃって。以来、マージナルな世界のことが、すぐに頭をかすめるようになってしまったんです。今でも、カイバル峠近くの乾ききった砂漠のなかのパシュトン人の部落に行ったときのことを思い出す。銃眼のついた高い土塀に囲まれた家で、銃弾帯をつけた屈強の大男がそれはそれは冷たい一杯の水をご馳走してくれた。あんなに美味い水は、後にも先にも飲んだことがなかった。そんな彼らも、いまごろは米軍のアルカイダ掃討作戦の中で逃げ回っているんだろうか、などと東京の街を歩きながら思い出して、急に背中が熱くなったりするんです。すると東京で毎日繰り返している生活のリズムが、だんだん狂ってくるんです。
- 2006年06月30日
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