映画評論家 波多野哲朗インタビュー第一部 (2)

話をもどしましょう。1950年代の終りから1960年代にかけて日本の映画批評は大きく変わります。それまでの映画批評はいわゆる「印象批評」が主流でした。「印象批評」というのは、一口で言えば論者が映画から受けた印象を基準に、映画を論じていくやり方です。そうした論者たちの多くは、一般の映画観客にくらべてまず圧倒的に数多くの映画を見ていて、映画界の事情にも精通し、もの識りで、教養的バランスのとれた、いわばセンスのいい人たちでした。しかし、かれらは自分たちのセンスそのものが何であるかを、けっして対象化したり論理化することはしなかった。ぼくはこうした「印象批評」の在りようを、かつて「批評の貴族主義」と呼んだことがあります。その根底には隠された特権意識があるからです。しかしいずれにせよ「印象批評」は、戦前から今日に至るまで日本の映画評論、とくに映画レヴューの主流でした。その特色は、映画についての圧倒的な情報量と人気ある映画に対する肯定的な態度にあると言えます。むろん他方には、こうした「印象批評」に対立するような批評の潮流もありました。大戦後のいわゆる戦後民主主義の高揚期には、左翼政治思想に立脚する現状批判的な映画論が数多く登場しました。これは論者のセンスや感覚に立脚する印象批評とは違って、思想やイデオロギーに立脚する映画論でした。しかし1950年代になると、この種のイデオロギッシュな映画批評は、映画の大衆娯楽化の波にあっという間に飲み込まれてしまいます。ただし、この種のイデオロギッシュな映画批評が残したのは、映画の現状に対するいささか知的で現状批判的な眼差しだったと言えるかも知れません。
- 2006年06月30日
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