映画評論家 波多野哲朗インタビュー第一部 (11)

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牛田: 映画の評論を読むということになると、私の世代(1980年代)では蓮實重彦さんだったんです。ですから私の世代は、映画について書くという人は蓮實重彦さんだったです。松田政男さんのような評論や小川徹さんのような評論というのは当時知らなかったんですが、松田さんや小川さんのような評論が姿を消した。つまりそれはあまりかっこよくないというような風潮があったと思うんです。そこで蓮實調にしたらかっこいいのかなというような。
波多野: 小川徹と松田政男では活動した時期が違うし、批評の内容にもかなりの隔たりがありますが、それぞれ立場から「映画の政治性」を問題にしていたという点では共通しているのかも知れませんね。それに対して、蓮実重彦の批評は、映画の背後にある政治イデオロギーを論じるようなことはない。蓮実は映画を「解釈する」ことを避けている。なぜなら、「解釈」という行為はある現象を前にして、現象それ自体について少しも語ることなく、つねにその背後にある観念を語るからです。蓮実は映画の表層に留まり、表層そのものについて語ろうとしています。彼の著書『表層批評宣言』を貫くのは、そうした「反解釈」的な態度だろうと思います。しかし反解釈的な批評態度というのは、映画をサカナにして思想を語ることを嫌って、もっと映画そのものに肉薄しようとした『シネマ69』という雑誌全体に、すでにその萌芽をみることができると思います。cinema3.jpg むろんその態度をもっとも徹底して、しかも持続的に推し進めたのが蓮実重彦だった。1980年代には雑誌『リュミエール』が登場しますが、この雑誌はこうした蓮実の批評的態度がもっとも純粋に表現されたメディアだったと思います。 つい先ほども、「寡黙なイマージュの雄弁さについて」(『文学界』平成18年3月号)という蓮実の侯孝賢論を読んだところです。ここでは、侯孝賢の映画が、映画に登場する乗り物によって語られていました。侯孝賢の映画における男女の関係が、列車では好転するが、自動車では破滅に向かう・・・といった具合に、映画の出来事をあくまで表層の戯れとして、シニフェに回収されないシニフィアンの戯れとして語っています。その批評の見事な手腕は、誰にでも真似できるものではありません。蓮実の批評は、方法としてかなり用意周到な戦略のもとに練られたものであると思います。
牛田: 波多野先生の時代は、映画を一回見て書く、という状況だったと思うんですが、私たちは何回も見る状況にあります。映画とは、本来ファシズム的なものだと思うんです。ずっと座っていないといけない、内容に手を加えることもできない。でも、ビデオなら、ある程度私自身が時間を支配できます。ビデオで研究している私たちは、先生たちの世代より再読が可能なんです。再度、映画評論を日本で盛り上げるとしたら、再読を前提として考えねばと思います。
波多野: 「テクスト」という概念は、再読を前提としています。読まれるたびに、その都度新たな姿を現す。むろん批評性ということになれば、テクストへの新たな読みでなければなりません。たとえ何回見たとしても、すでに誰かが語ったことを繰り返しても意味がないわけですから。

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