編集者 津野海太郎 インタビュー(4)

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tsuno_kaitaro.jpg牛田: 津野先生は、俳優はやらないんですか。
津野:僕はしません。六月劇場はやったけれども、自由劇場の黒テント以降は、演出も、そんなにはやりませんでした。周りに優れた演出家、佐藤信、唐、鈴木、とかがいたから、それはやめたの。ちょっとかなわない、ってね。
牛田: もう一方の編集者としてのお話もうかがいたいと思います。先生は台湾や韓国で本を出されています。黒テントもアジアとの関係が深いのですが、なぜ、アジアに興味をもったんですか。
津野:70年代の末かな、ずっとアングラをやっていたんだけど、題材として唐も鈴木の芝居にも昔のアジアのことはよく出てくる。だけど、実際のアジアの現在については、何も分からなかった。今と違ってね。じゃあ、20代30代、自分たちと同じような年齢で、新しい芝居をやっている人間はいないんだろうか、ということに関心がいった。70年代に入ると、欧米のことについては、少しずつ情報が入ってきた。3ヶ月ぐらいヨーロッパとアメリカ、東欧も含めて芝居をみてまわった。ベネツィアン・ビエンナーレとか各国のいろいろなフェスティヴァルで日本の現代演劇について知りたいという要望があったのね。『Concerned Theatre Japan』という、日本の現代演劇についての雑誌を出した。自閉的ではなく、社会的なものと関わりをもつ演劇、という意味でね。あまり美的でもなくてね。黒テントの仕事のひとつと『同時代演劇』という雑誌と英語でも演劇雑誌を出した。

牛田: 『Concerned theatre Japan』は英語の雑誌なんですか。


津野:そう。70年代の初めにね。それに唐の『少女仮面』や別役の『象』などを英訳して出版していた。時には、つげ義春の『ねじ式』や、赤瀬川などの漫画を特集し英訳した。その雑誌は黒テントの機関紙というわけじゃなくて、演劇を中心とした、ある種のアンダーグラウンド文化についてね。それがほとんど唯一欧米の人たちにとっての日本についての情報源だった。それもあって3ヶ月アメリカとヨーロッパを周ったんだ。70年代の初めまでは、まだ誰も動けなかった。それまでは、新劇も含めて、ほとんど文化的な鎖国状態だった。外国の芝居っていっても、写真を見てあれこれ想像するしかなかった。まあ、当時の日本の芝居は面白かったし、それ以上のものはほとんどなかった。別の意味では面白かったけれど。結局、その後から、僕らは黒テントとして行くのはやめたんだ。


牛田: どうしてですか?


津野:やっぱり、偏見が多かったから。狂言や能だとか、日本的なものを求められるでしょ。そういうものに対応するのが嫌だった。蜷川なんかは、そういったものを押し出していくけれど、逆に言えば、それしか武器がないから。欧米と比べ、アジアに関しては、まだまったく手がかりがなかった。そのころ日本に来るものといえば、古典的な民俗芸能を、すごくショーアップしたようなものばかりでね。若い人たちがやっている、現代演劇については分からなかった。最終的に行った先が、アジア太平洋資料センターという組織。そこでやっと、フィリピンのペタ(フィリピン教育演劇協会)という集団があることを知った。それがつまり、フィリピンの新しい劇団の中心。教育演劇とは、商業的な演劇というよりは、素人が集まって作ってはいるが、非常に洗練されていた。仲間と共に、そこへと行った。でも、ペタは最初、拒否したのね。「日本人はキャピタリストだから困る」と。でも、だんだん仲良くなっていった。行ってみると、あいつら金持ちの子女で(笑)何がキャピタリストだ、と。お互いのことが、だんだん分かってくるわけ。ペタとの関係を軸に、アジアとのネットワークが広がった。タイとフィリピンなんか、互いに敵視していて、相手のことを知ろうとしませんから。



牛田: 聞いていたペタのイメージと、だいぶかけ離れていますね(笑)ペタって、貧しい家の人々に、家庭内暴力の過ちなどを啓蒙するような演劇だと聞いていたので、日本で根付かないわけだなと思っていました。だけど、お金持ちの人たちがやっているんですか。

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津野:そう。それから、僕と高橋悠治で、『水牛通信』をはじめる。80年代から、アジアとの関係が深まっていった。教育演劇の基礎には、カトリック基礎共同体というものがある。そのなかで起こっている問題を、身体と演劇を通じて問題提起する。文章を書くのは、苦手な人たちですから。夫婦喧嘩もしかり。人々の前で、その場面を演じて見せるわけ。そこで、解決の仕方をあれこれ出し合うわけ。「革命」ったって、単なる言葉に過ぎないから。実際に、どういう行為を意味しているのかということを、実際にその場を演じさせることによって理解させていくメソッドが確立されている。集まった連中が、思惑を捨て、ふっと考えることのできる仕組みがある。元々は、ペルーで作られた方法なんだけどね。自分で自分を教育する、演劇の仕組み。それが、ペタの活動のひとつだった。だから識字教育の運動と、重なっているわけ。言葉を覚える場合、言葉とその意味を、生活のなかで自分なりに定義していかないといけない。芸術としての演劇とは別に、そういう流れがあった。それが、ペタとの接触を通じて、日本に入ってきた。しかし、ペタだって、そういうことばかりやっているわけじゃない。城跡の公園を改造した野外劇場で、ブレヒトの芝居をやったりね。そっちの方が主流ですよ。また『本とコンピューター』の場合も同じです。アジアのなか、日本、中国、韓国、台湾の出版界で、交流なんてものはありません。気持ちのわだかまりもある。それが、最近になって、少しずつ戒厳令が解けてきて、コミュニケーションが始まった。僕らのスタッフは、英語のウェブサイトもっています。アジア各国のスタッフが集まって、英語を媒介に、コミュニケーションを図る。デザインを含め、日本に負けていないよ。そのなかで、デザイナーの杉浦康平さんは、アジアにおける、デザイン上の共通語みたいなものに精通しています。要するに、共同で一冊の本を作って、それを各国それぞれで出版しよう、ということになった。僕らが中心になり、各国からそれぞれ編集委員を出して。同じフォーマットで作り、それぞれの国で売る、というプロジェクトだった。日、中、韓、台、四つの国が協力しあってね。図書や、出版状況についての本をだしたのです。

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