編集者 津野海太郎 インタビュー(3)
津野:僕は、小学校のときから新宿にいたからね。あの町が出来てくるプロセスを、焼け跡の時代から見ていた。闇市も少し残っている時代でね。小学生のころ、産業文化博覧会っていうのがあって1950年にパビリオンができた。そのとき、今の歌舞伎町の構造ができるわけ。いうなれば、ゴールデン街は闇市文化の流れですよね。闇市で、安い酒が手に入るということで、いろんな連中が集まったわけ。そこでは、闇市風の、荒っぽい酒の飲み方をしていたの。酒の飲み方っていうのは、ひとつの文化だから。時代時代によって、飲んでここまでやっていい、ということに違いが出てくるからね。人にからんでゲロ吐いて、そういう流儀が、高度経済成長が始まっても、あそこら一画には生き延びていた。唐十郎や、中上健次なんかは、ずっとやっていたけれど。特に映画っていうのは、体質的に古い社会だから、一時代前のすさんだからみ酒を、最後までやってきたところがある。新宿の街が、どんどん変わっていくなかで、あのゴールデン街だけが、そういうルンペン左翼的な空気を残してきた。新宿は学生が多かったし、元をただせば宿場町だったから、あまり上品なところではなかった。中央線から流れてきた人たちにとって、東京の玄関は新宿だし、その周辺にはおのずと、よそ者が入りやすい町の空気ができる。
牛田: 60年代は、演劇や映画が、新宿を中心に出てきたと感じますか。
津野:そんなことはないよ。それは後付けであってね。もっと日常的だった。ただ、新開地になって、西口が開発され、スキ間ができたから、僕らも黒テントを張ったんであってね。黒テントを張る土地を、いつも探していましたから。ただ単に、新宿は人が集まりやすかったからね。けど、新宿でやらねば、というのはなかったよ。歴史的事実としてはそうだけど。まあ、僕らには親しい盛り場ではありました。
牛田: 現在の新宿は演劇の劇場がありますが、当時は劇場がなかったのではないですか。
津野:60年代紀伊国屋ホールができるまで、芝居ができる空間というものが、ほとんどなかったのは事実です。特に、若い劇団にとっては。今みたいに、ライブスペースなんてないしね。紀伊国屋ホールと、俳優座劇場が主だった。僕がはじめに六月劇場というのを作ったんですが、初回の公演は、紀伊国屋ホールでした。62年に学生演劇上がりで第1回やったのは俳優座劇場。唐たちの状況劇場がスタートしたのも俳優座。それから、鈴木忠志たちが別役の『象』でもってスタートしたのも俳優座。要するに、どんなやつがやるにしても、そこしかなかった。やるだけでも大変だったけどね。
牛田: 新宿文化劇場の支配人であった葛井欣士郎さんは、岸田森さんの自宅スタジオに、お客を入れたことを見て、それに触発されて新宿アートシアターの地下に蠍座を作ったというお話をききました。津野先生は岸田森さんのご自宅のスタジオで芝居を打ったのですか。
津野:6月劇場の最初の段階に、僕たち学生演劇と、文学座の若手だった岸田たちとで芝居やることになって、後に別れる蜷川の紹介でね。第1回公演を紀伊国屋で1966年の6月6日にやろうってことになって。それまでは学生演劇上がりの素人と、若手バリバリの岸田たちで。1年ぐらい時間がほしい、ってことになった。白金台の家を借りて、見本を作った。リビングルームの向こうにある四畳半を利用して、食堂から、それを見るという形にしたのを2回ぐらいやったかな。お客さんは20人ぐらいだった。いろんな人が来たのよ、なにやるんだろう、ってね。そのスタジオは、そんな立派な家じゃなかったよ。四畳半演劇のときは、大っぴらに公演していたわけじゃない。密かにね。その後の正式なスタートは、紀伊国屋ホールだからね。僕は、新宿文化劇場ではやらなかったな。そのころは僕らが一番小さかったよ。みんな無名だったしね。そのときは、お金取らなくて、年齢×10を基本のおこころざしでね。
- 2006年05月22日
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