松本俊夫氏に聞く―芸術・映画についての原初的体験(2)
広瀬 実際に、映画を自分の表現として考えたのは、大学に入られてからですか?
松本 いや、高校の終わり頃に、イタリアン・リアリズムが入ってくるんです。ロッセリーニとかヴィットリオ・デ・シーカの世界に接して、今までのフランス映画に対する、うっとりするような体験の世界が木っ端微塵に砕けていく感じがしたわけです。映画ってすごいってほんとに思いました。いままでは趣味で好きだった。でも、イタリアン・リアリズムのような映画を作る人生や世界にものすごく憧れました。けれども、この時期の映画界っていうのは、今と違ってとっつきようのない特殊な世界だった。ましてや自分で個人映画を撮るような時代じゃなかった。映画界は、憧れの向こうの世界なんだけども、こんなものを作るって言うことができればすごいな、と思った。
当時、実際に自分でやっていたのは美術でした。中学の時から、絵描きさんに指摘してもらいながら、油絵を描いていて、絵をやっていこうとしました。大学を受ける段階でも、美術の学校へ行きたいと思って、東京芸大を受ける気で猛勉強して。でも、親父が許さなかった。当時は、今の美術の学生のイメージとはまるで違って、絵描きっていうのは、食えなくて、どうなっちゃうのか分からないほど貧しい時代でしたから。親父がよく言ってたのは、芸術ってのは血筋があると。しかし、それがうちにはないんだ、親戚を含め、芸術の人間はいないんだよ、といってやめさせようとするんです。
ところが僕を絵好きにさせたのは親父なんです。美術館によく連れて行ってくれたりした。親父が言うには、自分が青年時代に、田舎から出てきて、それまで文化芸術に接するなんて機会がなくて。いやあ東京ってのは凄い、そこで体験した文化的環境は、田舎にはなかった。子供には、もっと早くにそういう世界に触れさせてやろうと思ったわけです。分かる分からないはともかく、展覧会、レコード、近代文学全集などに慣れ親しませたのは親父なんです。だけど、専門的にやらせることはまるで考えてなかった。教養であると。
何しろその頃はバイトなんてない時代で、親が反対したら学費を払うこともできないので、芸大に進むことは断念しました。そこで、第二志望の東大の医学部へ入った。でも、芸術が忘れられなくて。たとえ貧乏であっても、芸術を脇に置いて生きてしまうことをよしとしたくなかった。そこで、親に内緒で専攻を変えちゃったわけ。教養学部から専門課程への変わり目で、医学部から文学部へと移った。親には後になってばれました。どうせ落第したと思われたけど、説明もしなかった。
その頃はまだ、美術をやっていたんです。けれども、相変わらず映画は見ていました。大学に入ってからの体験として、美術の集まりでアラン・レネの『ゲルニカ』って映画にショックを受けましたね。こんな映画があるんだと。それまでは、劇映画しか知らなかったわけだから。ある意味では『ゲルニカ』は、映画であると同時に美術でもある。その間に引き裂かれて悩むことはない。両方を満たすんじゃないかと。外国から徐々に文献も入ってくる。美術でシュルレアリスムに影響を受けた頃で、そうした関係の文献を読んでいるうちに、その文脈の中で映画が作られたことを知るわけね。スチールなんかも載ってる。ルイス・ブニュエルとダリの映画『アンダルシアの犬』の中で、手のひらを蟻が這っているという、イメージとしてもショッキングなのがあって、これはどんな映画なんだろうって。見てもいないアヴァンギャルド・シネマにひきつけられていくわけ。当時はまだ、こうした映画は日本じゃ見られないから、見た体験がなくて、書かれたものを通して勝手に想像したそのイメージに影響を受けるんです。こういう映画をやって生きたいと思った。
同時に、イタリアン・リアリズムとのギャップが解決せずあるんだけど。イタリアン・リアリズムと、その周辺にドキュメンタリーの世界があって、これもショックを受けるものがありました。最初の評論集『映像の発見』(三一書房、1963年)に「アヴァンギャルドとドキュメンタリー」という副題を付けて、表紙にavant-garde ? documentaryと表記しているところは、こうした問題意識と関連しています。
広瀬 その後の前衛記録映画論、ネオドキュメンタリーの考え方とリンクしてくるところがあると思います。
松本 もうちょっと後になって整理してくると、アヴァンギャルドとドキュメンタリーは、両方とも意識のコントロールの外が関わってきてね、そこで受ける体験の質が自分にとって意味を持つという直感がありました。二つの関係は、一見相反するように見えるけど、サイフォンのように底流でつながって、意識をはみ出すという部分で共通していると考えた。映画体験として、普通の体験にないものがこの二つにはある、そんな気がします。
このあたりで、映画に踏み込んでくるところまで来たわけだけど、自分の将来を考えていく上で、美術なのか、映画なのかの揺れ動きがありました。美術の道に進むっていったって就職するわけじゃないから。何かをやって食べていかないといけないわけだし。一方で、映画は好きだけど、実技は全然やってなかったし、作家になるには実技がないと。就職難の時代だったので、大学から、最初に合格した就職先に決めてほしいとの通達があったので、まず決まったところに入りました。中規模な会社で、部分よりも全体を経験できるところが希望だったので、社員が100人規模の新理研映画を受けたんです。
広瀬 映画理論はいつ頃から読まれたのですか?
松本 映画理論はずっと後から。最初に読んでいたのは映画史の本。戦前に出ていた映画理論の翻訳本はそんなになくて、神田あたりで探して、人並みにエイゼンシュテインとか、プドフキンとかの翻訳読んだぐらいでした。大学では、現代美術の研究はダメだと言われて、ヘーゲルを研究しました。ヘーゲル美学における主観・客観の関係というのがテーマなんです。この見方っていうのが、映画の世界に関してもつながっているんです。映画の世界でも、主観と客観が二重化されてくる性質があって、その点につながってくる。
- 2005年12月27日
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