松本俊夫氏に聞く―芸術・映画についての原初的体験(1)
文化会議 特集インタビュー
今回は、記録映画、実験映画、劇映画、ビデオアート、インスタレーションなど、多彩な領域で作品を作り続けてこられた映像作家の松本俊夫氏にお話を伺いました。松本氏は、1932年名古屋市生れ、東京大学文学部美学美術史学科を卒業後、処女映画作品『銀輪』(1955)をはじめとし、『薔薇の葬列』(1968)、『修羅』(1971)、『ドグラマグラ』(1988) などの長編劇映画や『つぶれかかった右眼のために』(1968)、『アートマン』(1975)などの実験映画作品を数多く製作される一方で、映画の評論や批評の執筆も精力的に手がけられ、『映像の発見』(1963)、『表現の世界』(1967)、『映像の変革』(1972)、『幻視の美学』(1976)、『映像の探究』(1991)などの著作も発表されてきました。特に、戦後の日本映画界においては、映画の製作、上映、批評、研究をめぐる新しい状況を作り出す活動を牽引されました。
現在は、日本大学大学院芸術学研究科客員教授として映像製作や研究を志す学生の指導にあたられています。このインタビューでは、松本氏ご自身の映画体験を中心にお話いただきました。
聞き手は文化会議の広瀬愛、牛田あや美、写真撮影は山下聖美です。
(平成17年11月21日、日本大学芸術学部江古田校舎松本俊夫氏研究室にて)
以下、敬称略。
広瀬 ご兄弟は何人だったのですか?
松本 四人兄弟の二番目です。兄と三男の弟がしっかりしているから、親は僕をあきらめていたと思う。勘当みたいにして、ほんとに早く家を飛び出しましたから。大学に行ったときは、奨学金と家庭教師のアルバイトで何とかしていました。
広瀬 お母さまはどんな方でしたか?
松本 古典的なお茶とか謡い、謡曲などが好きでした。
広瀬 小さいころからそういったものに接する環境があったのですか?
松本 すごく反発しましたよ。お茶の心得なんかを仕込まれてね。座ってじっと待っているのがいらいらしてくる。だけど、おかげで、大人になって京都なんかへいくと、お茶出されたとき、どうしてそんな作法を知っているんですか、なんて言われました。
松本 記憶に残っているのは、すごく恐くて、ずっとまといついてた映画のイメージ。後で調べて、多分それじゃないか、っていうのが『風雲将棋谷』(※)日本映画。時代劇よ。見ながら、恐くて、でも、映画を見たっていう記憶は残っていたわけ。小学校4、5年です。場所は渋谷の百軒店。今はないでしょうが、映画館が集まっていて不良が行く所だった。
(※)
『風雲将棋谷 前編』(日活京都撮影所作品、荒井良平監督、1940年)、あるいは『風雲将棋谷 完結編』(日活京都撮影所作品、荒井良平監督、1940年)。
広瀬 当時は頻繁に映画には通われていたんですか?
松本 いや、小学校時代ははまだ通うってことはないけど。嵐寛十郎の鞍馬天狗とか、時代劇が多かった。
広瀬 その頃は、映画を娯楽として楽しんでらっしゃいました?
松本 もちろん。ワクワクして、映画って面白いなと思っていました。特に時代劇。チャンバラ映画の真似をして、しょっちゅう電球の玉を割って怒られたりね。この時には、まだ、芸術という問題意識はありません。
広瀬 高校生の時にはどうでしたか?
松本 お父さんが興行関係の株を持っている友達から、新宿の全部の映画館で使える株主の招待パスを借りて、映画館に通いました。お前が行かないんなら貸しとけ、お前が行くときは返すから、って僕が普段は預かって。学校は午前中で終えて、午後は映画に行くということをよくやったわけです。洋画も邦画も関係なく新宿の映画館をほとんどまわっちゃう。当時は、新宿の映画をほとんど見ちゃうってことは映画をほとんど見ちゃうに等しいくらいのことでした。とにかく、はしごで見て、気に入ると同じ作品を繰り返して何度も見たり。名画座や日活の映画館のあった柄の悪い場所をうろついてるもんだから、警察に二度補導されて、学校に呼び出されて怒られたりしていました。外国映画を見ながら、英会話の勉強にいいとか屁理屈言って、映画に浸ってた。
でも自分で映画の世界に入ろうとは思っていなくて。その頃は、30~40年代のフランス映画を中心とした、ヨーロッパの映画のファンでした。味があったね。アメリカ映画はそれに比べると味がないと感じていた。特に、ニヒルな感じや蔭りが好きで。『旅路の果て』(La Fin Du Jours、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督、1936年)なんかね、人生の最後の年齢、老人の話ですが、好きでね。学生時代に8回見直してるんです。覚えちゃう。『望郷』(PEPE-LE-MOKO、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督、1937年)とか。いわゆるそんな世界が、映画にひきつけられるポイントだった気がする。もちろん、西部劇とか活劇とかも好きだったけれど。どこかしら、ある種の文学性を漂わせるものが好きでした。
- 2005年12月19日
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