■弥次喜多INリアル■ 林未央

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 【林未央(はやし・みお)】 日本大学芸術学部文芸学科在籍 

「おいら、リアルがとんとわからねぇ」

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真夜中の弥次さん喜多さんの冒頭で、喜多さんが発した言葉である。二人はそれをきっかけにして、お伊勢さんへ旅立つことになる。お伊勢さんへ行けば、薬の苦しみも、働くことの苦しみからも解放されると信じて。

映画の中で、喜多さんの言う〝リアル〟とはなんだったのか、明確には語られていない。辞書を引いてみるとリアルは「現実的・写真的」とでている。では喜多さんは「現実」が分からないと言っているのだろうか。私は違うと思う。現実ならば、実にはっきりしている。弥次さんという同姓の恋人がいるが、彼には妻がいる。自分自身は薬に溺れ、その費用を稼ぐために毎日働いている。これが彼の現実だ。けれどもこれは〝リアル〟ではない。喜多さん自身が
「こんなのはリアルじゃねぇ」
と否定している。そして物語の終盤で、脱衣婆に、喜多さん自身が弥次さんを殺したのだと聞かされて、またしても
「こんなのは俺の求めていたリアルじゃねぇ」
と言う。よって現実=リアルでは無いことが分かる。

では、喜多八の言う〝リアル〟とはなんなのか。私は、リアルとは理想、もしくはそこへ辿りつくまでの道程なのではないだろうか。喜多さんは薬に苦しむことなく、その為に働くことなく、なおかつ恋人の弥次さんが側にいてくれるという、リアルを求めている。

しかし、そんなものは決してあり得ない。薬から逃れる日は来るかもしれない。ただ生活のためにあくせく働くことは無くなるかもしれない。けれども、だからといって、彼が生きていく上での苦しみは無くならない。喜多さんだけではない。弥次さんも、彼の妻のお初も、私たちだって生きていく上での苦しみは、決して無くなる事じゃない。一つの苦しみが解消されれば、次の苦しみがやってくる。その連続なのだ。

ただし、その果てのない苦しみから逃れられる方法が二つだけある。一つは死ぬことであり、もう一つは一生眠り続け、夢を見ていることなのだ。リアルとは、生から逃れる方法なのだ。そしてお伊勢さんへ行くというのは、生から逃れるということなのだ。

 弥次さんを含めた登場人物の多くは死ぬ。死後の世界ではみんな同じ外見、魂そのものの姿をしている。誰もが働かずにすみ、健康ランドもしくはスーパー銭湯のようなところで、のんびり暮らしている。生における大多数の悩みを占めるのは、他人との違い、差から生まれるのだ。外見・収入・出身。私たちは自分よりも多くのものを持っている人を妬み、少ない人を蔑む。死後の世界の彼等は、差や違いを無くすことによって、その苦しみから逃れたのだ。

 喜多さんはというと、彼は恋人を殺したという現実から逃れ、弥次さんが生きているという夢を見続ける。自分に都合のいい夢を見ることによって、思い通りにいかない現実の苦しみから逃れたのだ。

 けれども、二人はそのリアルからも逃れようとする。なぜか。答えは簡単だ。死後の世界には喜多さんが、夢の世界には弥次さんがいないからだ。二人はセットで幸せになることを望んでおり、別々ではなんの意味もないのだ。

 結局、弥次さんは生き返り、喜多さんは夢から覚める。二人はあれだけ求めていたリアルを否定したのだ。

 私はお伊勢さんへ行くなんて、建前に過ぎなかったのではないかと思う。二人で旅をし、一緒に過ごすことが目的だったのだ。そう言えば最初から彼等は言っているではないか。弥次さんは
「喜多さんと旅がしてぇんだよ」
 喜多さんは
「弥次さんと行くお伊勢さんへの旅。面白くねぇわけがねぇよ」と。

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