■「喜多弥次」のリアルへ■  福岡尚志

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 【福岡尚志(ふくおか・ひさし)】 日本大学芸術学部文芸学科在籍 
 

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 米を研いでいる手という場面から始まって気持ちが悪かった。ジャッジャッという音が不快感を出しているだけかと言うとそれだけでなく、米を研いでいる手だけしかカメラが映していないというのが一番の原因であると思う。

 気持ちが悪くなるのは、他の部分が見えないからである。雷のSEとか白黒映像であるとかが使われようが使われまいが関係なくて、単純に米を研ぐ手だけを見ていると、その行動が信じられなくなる。同じ文字を繰り返し書いていると、その文字がその文字であるのか分からなくなる感覚の応用だろうか。とにかく米を研いでいるだけではなさそうだ、という疑いが我々観客に生まれる。

 

次のシーンは四谷怪談をモチーフとしたパズルゲームのような、お初か喜多か、といった揺さぶりを思わせる弥次の夢である。

 さらに次のシーン。弥次が目覚めると、喜多が弥次に、「おいらの夢を盗みやがって」と見透かしたように言っている。

 映画を全て見終わって考えてみると、俺はこのセリフに頼って映画を思い出しているようだった。

 弥次と喜多が同じ時間と空間を生きているかと問うてみると、必ずしもそうとは思えなくて、それはそもそも時代を無視した世界からしてリアルと呼べなく、交錯した嘘ばかりを見せられたからそう思うのである。現実世界に住む我々観客からすれば、ハッキリ言ってラリった喜多の描いた絵空事にしか見えない。いくら白黒のシーンと対比させてカラーで描いたとしても、だ。

 対して我々が自分たちの世界に当てはめてリアルと感じるのはむしろ白黒で描かれた、弥次の物語の方である。こちらはやはり、カラーで見える喜多の嘘臭い妄想を喜多の視点で描いた世界だとすると、弥次の視点で描いた世界というふうに俺は解釈する。

 そして弥次の見る世界は辛いことばかり起こっている(少なくとも作品上では)。このことを考えると、弥次の世界観は現代の我々日本人の多くが抱えている辛さと同じである。救いや理解を与えられずに不信を人に募らせ、爆発するまでうっぷんを蓄えるだけで生きて、ストレスを受け入れてくれる相手がいれば、その人に偽りの愛を感じてねじ曲がった人間関係を生み出す。弥次にとってその相手が喜多だった、とは言い過ぎでないと思う。

 弥次はお初を殺して喜多の部屋へと転がり込む。気晴らしというかそんな感情で喜多を抱き、殺人の罪から逃れようとして喜多を巻き込んで伊勢へ旅立とうとした。それくらい身勝手な男であると思う。過ちとはいえ、妻を殺しておいて逃げる男である。ちなみにこの弥次の人物像は、弥次のリアルから察したものである。喜多から見ればまた違って魅力のある人物になってしまう。こんな男のどこに惚れ込んだのか、別にゲイでもない俺は何一つ嫉妬することなく筆を進めよう。

 喜多の思い焦がれる弥次、つまりカラーシーンの弥次は、常に弥次だけを気にかけて愛してくれる。「おいらリアルがわからねえ」と自分が言えば、「喜多さんが俺のリアルだ」と、おそらくは自分の望む最高の応え方をしてくれる。この応えを喜多が一番に望んでいるのであれば、それはつまり喜多が、弥次と自分の関係に不安を抱いているということである。リアルが判らない喜多は、弥次に対してもその不安を持ってしまう。笑の宿でさくらのおばちゃん集団に自分の幼少時代を笑われたあのシーンを思い返せば、喜多は幼少時代に周りに気持ち悪がられ、イジメを受けていた。こういった子は、人の心を読むのが苦手で、かと言って相手にその本心を聞くという勇気もない、何とも哀れな人間へと育ってゆく。だから最愛の弥次の本心が読めずに、絵空事の旅物語を作り上げて、自分より少し馬鹿な(このへんが恐ろしい)偽物の弥次と愛の試練を乗り越えてゆくのだ。あくまで妄想で。だからこの作品は、主人公である喜多が、人を信じて愛する力を心に持てるまで、を描いていたように思ったのだ。弥次が生き返ったのは喜多の心の中での問題で、実際の弥次は相変わらず死んでいると考えるのが俺の普通である。弥次喜多は最後まで乱れて絡まっている。

 それにしても喜多は弥次のどこが好きなのか。歌の宿において喜多は弥次にうっとうしさすら感じている。そして遂に王の宿においては憎しみをぶつけて彼を殺してしまう。彼への殺意を自覚した、と現実世界的に言うべきか。このあたりは恋人に抱く殺意をゲイ的に歪ませて愛の姿なのだろうと一応は理解する。そう理解すると、やはり殺意を抱くほどに愛するというのは、自分の愛が相手に全て受け入れられず、自分が満たされていない状態の時に生まれる嫉妬が引き起こす感情であるので、それほどに喜多は弥次を、かなり一方的に、愛していることが分かるのである。

 喜多は歌の宿において、お幸という娘に恋をする。歌の宿はしかし、相変わらず喜多の想像でしかなさそうなので、リアルの恋だとは素直に認めるべきではないだろう。

 俺がむしろ思うのは、今まで受動的でしかなかった喜多の、自我の芽生えがお幸との恋という形になって現れたということだ。

 ではその自我はどんな内容かと言うと、やはり疑いと憧れが地盤になっていると思われる。ただ今回に限って言うが、疑いはこれまでの疑い、つまり弥次に対する不信だけでなくて、自身の存在への疑いも含んでいる。自分は本当に弥次を愛しているのか。ここまでの作品の流れを見てみると、喜多は弥次を盲目的に愛している。そこに理由は見え辛く、運命と呼ぶ他に俺にはない。喜多が弥次に常に欲しているのは確かなものである。しかし運命は確かなものと分からない。だから喜多の描く妄想は、一瞬で消える笑い多い。一瞬は文字通り瞬く間に消えてしまうようで、一瞬である分、例えばそれが笑いである場合に歴史として考えた時に、笑いが起こって関わった人が楽しんだ、という確かな事実しか残らない。ある意味、一瞬の笑いは確かな永遠なのだ。だがそれは笑いにおいてしか喜多は成立させ得ない。欲しいのは愛と救いだ。しかし弥次の愛はどうなのだ、と疑うと、弥次はお初と結婚している。本当は女の方が好きなのではないだろうか、という疑いに変わり、女に憧れ、女になりたいと考えるようになるだろう。女と同一化を果たす、それが恋へと変化した喜多の自我だと思うのだ。

 自我を持った喜多は弥次から遠ざかる。なぜだろう。思うには、女と同一化した視点を持った時に、女から見た弥次の魅力に気付いてしまったのだ。だから自分の鏡像的存在のお幸は弥次に恋をする。しかし弥次はそれを突き放す。自分が初めて気付いた自我を喜多は、最愛の人に拒絶されたのだ。喜多は相変わらず弥次に、運命によってしか愛されていない。喜多の悩みは、確かなものが欲しいということから、確かなものへと恐れへと変わる。自分の持っている確かなものが悪性のように思えたからである。

 自信の持てない喜多は皮肉にも弥次と手が繋がってしまう。これは以前から決まっていたことではあるが、喜多の苦しみがハッキリと具体化したために起こったことであろう。王の宿で喜多はその運命を断ち切った。ということに気付いた。そして苦悩する。自分が弥次を殺したという事実を、映画という媒体を通してみて、「こんなのてんでリアルじゃねえや」と叫ぶ。喜多は愛を失ってしまった。

 愛を失った喜多は、森に住むバーテンによって癒される。そしてそこで学ぶもの、それは相手がどうであろうと相手を思い続けるということである。たとえ弥次が一番に愛しているのがお初だろうと、喜多を慕う気持ちは変わらない。それをお初にまで認めさせてしまう。なんと恐ろしいことだろう。しかしそれによって喜多の愛は復活した。あとはクスリの幻覚と、酒の酔いが醒めさえすればいい。自ら出頭してどんな罰でも引き受けるだろう。

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