「真夜中の弥次さん喜多さん」を観て

今回の作品はとにかく人によって意見がものすごく分かれる作品である。くど官の映画は女子高生に人気が高く(長瀬や岡田が人気なだけかもしれないけれど)、劇場に観に行った帰りのエレベータの中は女子高生ばかりだった。聞き耳を立てみると(でっかい声で喋っているから聞き耳たてなくても聞こえてくるのだが)意見は面白いと、気持ち悪いと、意味が分かんないの三つにおおよそ分かれているようだった。
僕自身も実際観た直後の感想は「なんかすげぇことやっちゃたね」程度の感想しか浮かんでこなかった。
とにかく観た後の後味が悪いとまではいかないまでも、とてもびみょーなのだ。
二回目を最後まで観て驚いたのは「くど官」色が今までの作品に比べてタガがはずれてしまっていることだろう。
この「くど官」色がどういうものなのかは全てに当てはまるわけではないが、おおよその部分で言うとその童貞くささだろうか。
つまりは相手に「イタイ」「キモイ」と思われることを恐がって、ある程度以上のことは全て冗談や軽いノリにして自分が本当に伝えたい重い部分(自分が大事にしている部分)をわざと隠してしまうのが「くど官」作品の全体に流れている色なのである。
ただ、ここでは「くど官」が童貞だとかそういうことは関係なく、あくまでそういう作品を意図的に書くことができる作家だという意味で留めておいてもらいたい。
冒頭から中盤にかけてのミュージカル仕立ての演出は今までに比べると随分重い部分を前に出している印象を受ける。もちろんそれでも隠すところはきちんと隠している。あくまでもその部分は見せようとはしない。弥次さんが喜多さんの股間を触るシーンにしろ、ゴムみたいに一メートル近くも皮をのばして見せたりして、決してその描写に現実感を持たせようとしていない。
しかし、終盤にかけて、その今まで隠していたはずの重い部分が前面へ押し上がってくる。
人によって「終わりまでの30分はメロドラマチックでだるかった」という人や「意味が分からないし、なんか気持ち悪かった」という意見があるようだが、僕自身も映画として観た場合、その意見を否定しようと思わない。むしろ、僕自身もそう感じた。しかし、終盤がつまらなく感じてしまうのには訳があるのだ。
それは喜多さんが冒頭シーンで「オイラ、リヤル(現実)がとんと分からねえ」と言っている場面。ここで喜多さんは江戸の街並みや自分の生活のことだけを「リヤル」に感じないと言っているのではないのだ。喜多さんはその映画を演出している工藤官九郎自身に対して「お前の作品のリヤルがどこにあるのか、わからねぇ」と訴えかけているのである。

そうして始まった旅は展開が進むに連れ、くど官の持つ軽いノリの部分が弥次さん喜多さんのキャラクターによってどんどんはがされていき、最終的に重い部分だけが残ってしまっている。
工藤官九郎自身、自分の持つそういった重い部分が娯楽的には単純でつまらないものだということを自覚している。だからこそ、そこをできるだけ見せないように様々な工夫を凝らしているのだ。しかし、今回の作品に関して言えば、その隠すはずの部分の工夫をいつの間にか弥次さん、喜多さん、その周りの雰囲気によって麻痺させられてしまい、本来、人が「イタイ」「キモイ」と言うことに関して敏感な「くど官」作品も今回に関してだけはその辺の部分に鈍感になることができてしまったと言えるだろう。
そういう意味で言えばこの作品はしりあがり寿の原作のキャラクターに引っ張られ、「くど官」自身が隠していた部分を全てではないにしろ、一部引っ張り出されてしまった作品だと言えるのではないだろうか。
- 2005年07月07日
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