映画評論家 波多野哲朗

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映画評論家の波多野哲郎さんにインタビューしました。現在話題の「ちょい不良(わる)オヤジ」という言葉が出る前から、学生たちは密かに「不良オヤジ」と呼んでいました。いつも学校に大型バイクで乗り入れ、メットを外すとロマンスグレーの髪をなびかせ、足早に教室へと向かっていたことが由来です。
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波多野先生が映画評論家として活躍していた時代は、「映画評論家」という言葉が特別な輝きを持った職業として流通していました。しかし現在では「映画評論家」という言葉にそのような輝きはありません。現在の「映画評論家」のあり方と、波多野先生の時代とは異なっています。現在の「映画評論家」の役割は課題として残しつつ、50年代、60年代の「映画評論」とは何だったのだろうか。現在ではそれを振り返る動きがあまりみられません。映画史については多くの研究書があるにもかかわらず、映画評論史はほとんどありません。その映画評論史を編纂した理由、そしてその時代の映画評論がなぜあれほどまでに輝かしいものであったのか。

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映画評論家 波多野哲朗インタビュー第一部 (1)

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第一部

牛田: 昔のような「映画評論家」が現在いないことについてどう思いますか。
波多野: 真に私たちを魅了するような映画評論を書く人がいなくなったという意味ですね? おそらくその背景には、批評精神自体が衰弱して、映画評論というものが一体何なのか、何を書くべきなのかが次第に分からなくなってきているという状況があるのでしょう。ここで映画評論と呼ばれているものの歴史をちょっと辿ってみたいと思います。

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映画評論家 波多野哲朗インタビュー第一部 (2)

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話をもどしましょう。1950年代の終りから1960年代にかけて日本の映画批評は大きく変わります。それまでの映画批評はいわゆる「印象批評」が主流でした。「印象批評」というのは、一口で言えば論者が映画から受けた印象を基準に、映画を論じていくやり方です。そうした論者たちの多くは、一般の映画観客にくらべてまず圧倒的に数多くの映画を見ていて、映画界の事情にも精通し、もの識りで、教養的バランスのとれた、いわばセンスのいい人たちでした。しかし、かれらは自分たちのセンスそのものが何であるかを、けっして対象化したり論理化することはしなかった。ぼくはこうした「印象批評」の在りようを、かつて「批評の貴族主義」と呼んだことがあります。その根底には隠された特権意識があるからです。しかしいずれにせよ「印象批評」は、戦前から今日に至るまで日本の映画評論、とくに映画レヴューの主流でした。その特色は、映画についての圧倒的な情報量と人気ある映画に対する肯定的な態度にあると言えます。むろん他方には、こうした「印象批評」に対立するような批評の潮流もありました。大戦後のいわゆる戦後民主主義の高揚期には、左翼政治思想に立脚する現状批判的な映画論が数多く登場しました。これは論者のセンスや感覚に立脚する印象批評とは違って、思想やイデオロギーに立脚する映画論でした。しかし1950年代になると、この種のイデオロギッシュな映画批評は、映画の大衆娯楽化の波にあっという間に飲み込まれてしまいます。ただし、この種のイデオロギッシュな映画批評が残したのは、映画の現状に対するいささか知的で現状批判的な眼差しだったと言えるかも知れません。

映画評論家 波多野哲朗インタビュー第一部 (3)

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牛田: 映画雑誌でない『思想の科学』や『新日本文学』などから気鋭の映画評論が出てきますよね。
eigariron.JPG 波多野: いずれも映画業界や映画論壇とは無縁な知識人たちでした。『思想の科学』の鶴見俊輔は、映画に対する啓蒙主義的な態度やイデオロギッシュな批判に背を向け、映画に対する自由で多様な読みを主張しました。一方『新日本文学』には、日本共産党の硬直した文化政策に批判的な文学者が集って、思想や芸術の自由や前衛性について論じはじめます。とくに映画はその重要なエレメントでした。そして1960年代になると、日本映画そのものに新しい兆しが現われます。「日本のヌーヴェル・ヴァーグ」などと呼ばれる映画の新しいムーヴメントですね。大島渚や吉田喜重といった新しいタイプの監督が登場します。こうした監督たちはみずからも批評家と同じように、いやそれ以上に映画について雄弁に語りました。批評の側からそれを支えたのが小川徹の編集する『映画芸術』という雑誌でした。60年代の『映画芸術』という雑誌は、じつに華やかな映画雑誌でした。この雑誌では、大島や吉田のほか、篠田正浩、増村保造、松本俊夫といった映画監督たちが筆を執り、一方、花田清輝、吉本隆明、安部公房、清岡卓行、佐々木基一といった錚々たる文学者たちが競って映画を論じていました。この論者たちは既成の映画論壇、たとえば『キネマ旬報』にずっと名を連ねてきた印象批評の映画評論家たちとはかなり違った書き手たちでした。映画評論は、ここで知的な百家争鳴の時代を迎えることになったのです。

映画評論家 波多野哲朗インタビュー第一部 (4)

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牛田: 文学者や美術評論の人達が映画評論の分野に入ってくるのは大きなことでしたか。
波多野:  やはり大きな事件だったと思います。まず評論の文章自体が面白かった。そしていろんなジャンルの人たちが論じはじめたことで、批評の幅がぐんと広がったんですね。それまでの映画評論家たちは、「この役者の演技がいい」とか「あの映画のストーリーは解りにくい」とかそんなことばかり言っていたんですからね、まず批評のレベルが根本的に違う。それから、多くの論者たちが新しい映画の出現を今か今かと待ち受けているようなところがあった。だから論者たちは、みんな新しい動向にはとても敏感だった。そしておもしろい動きを見つけると、すかさずパッと書く。そこはさすがに60年代、今日ではちょっと真似できませんね。なによりもこの時代は、いろんな人たちが映画を語ることに貪欲だった。極端に言えば、どんな領域にあろうと知識人であるかぎりは、映画を語ることを避けては通れない、といった雰囲気があった。それは映画がまぎれもなく知の第一線にあったことを証しています。 hatano.jpg 60年代の映画雑誌でもう一つ忘れてはならないのが『映画評論』でした。この雑誌は60年代のサブカルチャーに加担する態度を鮮明に打ち出していました。編集長佐藤重臣は、前衛映画や実験映画、とくにアンダーグラウンド映画の紹介に力をいれ、そうした動きに連動する映画のムーヴメントに対しては、どんなにマイナーであってもそのための評論の場の提供を惜しみませんでした。いきなり個人的な話になりますが、じつは私がはじめて映画の評論らしきものを書いたのがこの雑誌だったんです。アメリカのアンダーグラウンド映画を紹介する文章でした。当時私は草月会館の中にあった草月アートセンターで働いていました。ここは60年代における日本のアヴァンギャルド芸術の拠点の一つでした。マース・カニンガムをはじめて日本に紹介したのも、オノ・ヨーコがはじめて舞台で詩を朗読したのも、世界前衛映画祭をはじめて日本で開催したもの、アメリカのアンダーグラウンド映画をはじめて輸入したのも草月アートセンターでした。アートセンターは草月会館の半地下にあって、頭がつかえるほど天井の低い部屋でした。しかしこの小さな部屋に毎日入れ替わり立ち代わりいろんな人が仕事半分、遊び半分でやってきたものです。植草甚一、武満徹、一柳慧、秋山邦晴、粟津潔、横尾忠則、和田誠、久里洋二、山口勝弘、松本俊夫・・・今でこそビッグネームばかりですが、武満さんは例外としても、当時は一般の人びとが誰でも知っているという名前ではなかったと思います。なによりもいま振りかえって面白いと思うのは、有名であれ無名であれ、そういう人たちがジャンルを超えて日常的に顔をあわせては雑談に興じていたことですね。今じゃとても考えられない。

映画評論家 波多野哲朗インタビュー第一部 (5)

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ああ、話を批評のほうに戻しましょう。60年代の映画批評は、こうして『映画芸術』と『映画評論』の2誌を中心に展開したと言って差し支えないと思います。しかし60年代も終わりごろになると、この2誌も次第に元気がなくなってくる。なぜそうなったのか。『映画評論』の場合は、明らかに批評の基盤をあまりに狭めてしまったことが原因であったと思います。この雑誌が果敢に肩入れした映画たち、それらはおもに新宿文化や蠍坐でかけられる映画であったり、公会堂や公民館で上映される自主公開の映画であったり、草月ホールで公開される実験映画であったり、あるいは大学キャンパスを巡回する映画であったりしました。しかしこれらの非商業的映画を観ることができた人たちは、日本全体から見ればごく限られた一部の人たちでしかありませんでした。cinema6.jpg 60年代の新宿や澁谷を席捲した文化と風俗の波、その背後にはたしかに反権力的な精神、異議申し立ての精神、サブカルチャーの精神、実験的な精神、野次馬的な精神が渦巻いていて、それは大なり小なり60年代の日本全体の文化状況でもあったと言えるでしょう。しかしその文化的な意義はともかく、映画を見るという最低の基盤なしに映画批評は成立しない。その意味で『映画評論』という雑誌は、若い映画作家たちとある種の感覚や精神を共有しながらも、ついにセクト性を抜け出せなかった。一方『映画芸術』のほうは、小川徹が自分の批評の方法として「裏目読み」を看板にしていただけあって、映画のレクチュール(読み)に関しては一枚も二枚も上だった。ただ、いま振りかえってみると、あの面白かった批評には、最初から言いたいことが先験的にあって、それを映画にかこつけて語っているようところがあったと思う。ぼくはこの種の批評を「引っかけ批評」と呼んでいるのです。映画を見ていると、それまで論者の中で眠っていたいろんな思考や感覚が触発されて、それらが言葉を生み出していく。だから批評の言葉にはいつも勢いがあって、読み物としてはじつに楽しかった。でもそれは映画そのものについて語っているのではないから、語れば語るほど映画からどんどん離れていくんですね。そして無理にそれを映画に関係づけようとすると、限りなく映画の恣意的な解釈へ 、極端な深読みへと陥っていくんです。私たちは、もっと映画そのものについて語りたかった。

映画評論家 波多野哲朗インタビュー第一部 (6)

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60年代の終りから70年代のはじめにかけて相次いで登場した3つの映画批評誌『季刊FILM』『シネマ69‐71』『映画批評』は、それぞれ性格は違いながらもそれまでの映画雑誌にはなかった新しい批評の在りようを打ち出していたと思います。先陣を切ったのが草月アートセンターの『季刊FILM』でした。編集委員は粟津潔、飯村隆彦、武満徹、勅使河原宏、中原佑介、松本俊夫、山田宏一。美術・デザイン・音楽の注目すべき3人ビッグネームを加えたこの編集委員の構成が、すでにこの雑誌の理念をよく表現しています。総合芸術あるいはアヴァンギャルドとしての新しい映画像です。4人の映画人もまた、作風の前衛性・実験性で知られた人たちで、しかも欧米の新しい映画事情に精通した人たちでした。じっさい、掲載される評論にもヨーロッパの映画批評誌なみの本格的な論文が多く、それまでの映画ファン向け映画雑誌とは明らかに違っていました。ちなみに、私がはじめてクリスティアン・メッツの論文を読んだのもこの雑誌でした。装丁はモダンで、質量ともにたいへん豪華な映画雑誌でした。 この雑誌よりすこし遅れて登場したのが、私たちの雑誌『シネマ69』でした。なぜ「私たちの雑誌」なのか?CIMG3018a1.jpg   ここで『シネマ69』の話をする前に、草月アートセンターに勤めていた私が、なぜ『季刊FILM』ではなくて、『シネマ』という雑誌を出すことになったのかについて、ちょっと私的な話をさせてもらいたいと思います。1968年のころと言えば、60年代中葉からいろんな領域ではじまっていた意義申し立てや反体制の運動がまさに最盛期をむかえようとしていた時期です。その中心にはいうまでもなく全共闘を中心とする激しい反体制運動があったのですが、そうした運動体にほとんど関与しない多くの人々の心情にも、反権威的・反権力的なムードは濃厚に漂っていました。知識人たちも例外ではありません。とくに万国博覧会 EXPO’70の開催については、賛否両論に意見が分れてはげしく対立していました。そのころ私は知り合いの写真家中平卓馬に誘われて、反万博の会合に出るようになっていました。多木浩二らもそこにいました。ところが私が勤務する草月アートセンターに関係するアーティストたちのほうは、ほとんどが万博の中心的な担い手でした。これには驚きました。彼らが、彼らにとっての絶好のビジネスチャンス到来という理由で万博の仕事をやっているのならばまだよかったのですが、万博の掲げるキャッチフレーズ「人類の進歩と調和」というイデオロギーと自分らの仕事とが、あたかも意義として一致しているかのように喜んでいる人たちに、私は憤りを覚えずにはいられませんでした。しかし私にとってやはりいちばんショックだったのは、アーティストの中でもとくに前衛的な人たちが、他の人たちにも増して、みずからの前衛的な主張と国家プロジェクトの未来幻想とを積極的に重ねようとしている事実でした。日本の前衛というのはそんなものだったのか・・・と。60年代の草月アートセンターは、私にとって実に刺激的な場であったし、とても楽しい職場でした。しかしこんなことから次第に息苦しくなって、とうとう草月をやめてしまったのでした。

映画評論家 波多野哲朗インタビュー第一部 (7)

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『シネマ69』は、波多野哲朗、手島修三、山根貞男の3人の編集委員で出発しました。資金は私が調達しました。当時の雑誌の奥付には「シネマ社」と記していますが、もともと会社ではなく、「編集委員会」といった名称が嫌で、便宜的に使った呼び名でした。私の住んでいた団地の2DKがその所在地でした。編集会議はたいてい喫茶店でやっていました。同じ映画雑誌と言っても、『季刊FILM』のような物理的な基盤も財政的な基盤もないちっぽけな集まりだったのです。しかしなぜか、志だけはおそろしく高かったのです。最後まで同人雑誌で終る気は毛頭なく、やがては3人がこの出版の仕事で食べていけるようにしようなどと言っていました。また内容としても、従来の映画雑誌の批評を超えようという意気込みをはっきりと持っていました。とは言え、創刊号を4000部も刷ってしまったので販売がたいへんです。cinema70.jpg 毎日私のボロ車にいっぱい雑誌を積んで、大きな本屋を一軒一軒訪ね、本を置いてくれるように頼んで歩きました。しかし意外に反応はよかった。新宿の紀伊国屋書店ではなんと平台に置いてくれて、発売日の1日だけで50冊も売れたのでした。新宿文化劇場にも置いてもらい、ここでも50冊。新宿だけで映画雑誌が1日に100冊も売れるというのは、いまではとても信じられないことです。むろんここには幾分ラッキーな面もあったのでした。『シネマ69』は地味で目立たない映画雑誌でしたが、はるかに大規模で豪華な映画雑誌『季刊FILM』に続いて創刊されたために、多くの大新聞がこれをひとまとめにして「新しい映画批評の波の到来」として、大々的に報じてくれたことでした。そのおかげで『シネマ69』は、一つの広告も出さないままに、一挙にその名が知れわたってしまったのでした。

映画評論家 波多野哲朗インタビュー第一部 (8)

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では、二誌は既存の映画雑誌に較べて何が新しかったのでしょう。とは言っても、『季刊FILM』と『シネマ』とは同じではありません。あえて共通する点を探せば、長文の本格的な映画批評が掲載されていたこと。とくに私たちの場合、まず30枚に届かない短文の批評を載せることは滅多になかった。それから二誌ともに、理論への関心が高かった。またともに海外の映画の動向に敏感であったことなどが挙げられるでしょうか。それにしても『シネマ』の場合、ジャーナリズムで話題になるような名の知られた書き手はほとんど登場しませんでした。cinema2.jpg 書き手のブランドによって雑誌を売ろうという魂胆などまったくなかったし、また名の売れたプロの書き手に原稿料を払うお金もなかったからでした。しかしこの雑誌には、並外れた力量を持つ何人かの書き手が、いつもほとんどボランティアのように協力してくれたのでした。その一人が蓮実重彦でした。いまでこそ誰もが知る高名な人ですが、当時フランスから帰国して間もない蓮実の名を知る人はほとんどいませんでした。彼は『シネマ69』の創刊号のためにアラン・レネに直接質問状を書き、レネの回答を引き出してくれました。また「鏡を恐れるナルシス」と題する長論文を執筆し、以来『シネマ』の常連執筆者として本格的な映画批評活動を開始したのでした。それからもう一人、常連執筆者に上野昂志がいました。上野は漫画雑誌『ガロ』の「目安箱」というコラムを毎号執筆していましたが、彼もまた知られた書き手ではありませんでしたが、『シネマ』にはじめて長い映画論を書いて、本格的な映画批評活動を開始したのでした。それから、フランス映画社の柴田駿と川喜多和子はずっと『シネマ』の強力な支援者で、柴田は毎号フランスの映画事情を書いてくれました。何度も言うようですが、『シネマ』(誌名は年を追って『シネマ69』『シネマ70』『シネマ71』と変化)は3誌のなかで最も地味な雑誌でした。

映画評論家 波多野哲朗インタビュー第一部 (9)

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では、この雑誌に何の特色もなかったかというと、けっしてそうではありません。その第一の特色は、映画そのものに徹底して固執しようとする態度でした。私たちは映画に対して先験的な思想や観念やイデオロギーについて語るのではなく、映画そのものについて語ることに極めて意識的でした。当時、山根は「映画のおもしろさに、とことんこだわる」と編集後記に書いていますが、まさに私たちはみずからの映画体験に忠実であろうとして、そこからのみ言葉を紡ぎ出そうとしていたのでした。
第二は、映画について語ることとは何か、映画批評とは何かという問いをつねに持ちつづけていたことです。ここには、従来の映画批評そのものに対する批判があったことは言うまでもありません。でも、こうした話は解りにくいでしょうね。もっと話を具体的にしましょう。たとえば私たちは創刊号ではレネを特集し、2号では鈴木清順を特集、そして3号目ではゴダールを特集しました。つまり、私たちはレネと清順とゴダールという世間ではまったく別種ものと見なされている映画を、同じ言葉で論じる映画批評の実現をこそ求めていたのでした。cinema4.jpg 同様に大島渚とマキノ雅弘の映画を同じ言葉によって論じようとしていたのでした。それまでの映画批評、つまり解釈学的な深読み中心の映画批評では、その結論は必然的に映画の背後にある思想や現実問題に還元されることになり、その限りでは、鈴木清順とゴダールとマキノの映画は、完全に別種の存在として位置づけられるほかはなかったのでした。私たちは、もっと映画そのものに留まることを考えていたのでした。
3番目に登場した松田政男を中心とする『映画批評』についてもちょっと触れておきましょう。この雑誌は、60年代末から70年にかけての反権力運動、反体制運動に共鳴する映画批評を目指した雑誌と言えるでしょう。より具体的に言えば、当時盛り上がっていた全共闘運動を中心とする新左翼イデオロギーの視角から映画を見直す作業であったと思います。とは言っても、彼らはたんに政治的な映画を扱っていたのではなく、映画を彼らの政治的観点から見直すということであって、いわゆる古典的なイデオロギー批評ではありませんでした。ここにも、従来の映画批評に対する批判が見られるからです。この雑誌も『シネマ』同様、30枚以下の批評は掲載しませんでした。しかし彼らは『シネマ』に対して、「いまどき何をのんびりと作家特集などやっているんだ」とつねに批判的でした。その意味でこの雑誌が、もっとも「70年的」だったんでしょうね。しかし、この3誌はともども、1973年ごろまでにみんな姿を消してしまいます。『ぴあ』の時代、情報誌の時代の到来です。

映画評論家 波多野哲朗インタビュー第一部 (10)

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映画批評をめぐって、もう二度とあのような時代はやってこないでしょうね。『シネマ』は創刊のときは同人雑誌の規模でしたが、2号目から取次店の日販が、3号目からは東販が扱ってくれるようになったんですからね。今日ではまったく信じられないことです。いまはかなりの出版社でも、なかなか取次店の口座を持てない時代です。映画の批評誌などまずは相手にされませんから、永久に同人誌でありつづけなければなりません。それから、長文の映画批評を大勢の人たちが読み、それについて議論をするという時代が終ったことです。むろんいまでも本格的な映画批評はあるけれども、それを読むのは限られたごく映画研究者とマニアックな映画ファンだけで、かつてのように一般の映画ファンではありません。cinema5.jpg いまでも映画評論といえば、ほとんどがレヴューです。レヴューというのは、言うならば映画の紹介プラス印象批評ですね。評論家たちは、一般の人たちよりも何ヶ月か前に試写室で映画を観て、その映画について書くのですが、それを読む人たちのほうは、まだ映画を観ていないんです。こうしたレヴューと批評(クリティーク)とはまったく別のものだと、私は『シネマ』の頃から考えていました。『カイエ・デュ・シネマ』などがエイゼンシュテインやゴダールの特集を何度も何度もやっているのを見るにつけ、なぜ日本の映画雑誌は封切り前の映画ばかり批評するのだろうと思っていました。
73年の『ぴあ』の登場から出版の状況は大きく変わり、情報の時代、カタログの時代に入ります。それによって映画について厳密に論じられていた問題意識も、そのまま投げ出されてしまいました。たとえば映画について、「なにをどのように語るのか」また「なにを語ることが出きるのか」といった問題について、もっと考えておかねばならないはずです。しかし映画批評の質が低下してしまった。知的に研ぎ澄まされ、蓄積されてきた議論が、情報化社会の中でちゃんと生き延びることが出来なかった。「思想的流産」です。
牛田: 波多野先生がなさっていた『シネマ69』は雑誌としては長く続かなかったのですが、その延長線上に『リュミエール』があって、1980年代へと続いていくように思うのですが。
波多野: 私もそう思います。『シネマ69』の映画そのものについて語るという問題意識は、『リュミエール』によって受け継がれたと思います。もっとも『リュミエール』は、『シネマ69』よりは、はるかに映画通の雑誌になったけどね。

映画評論家 波多野哲朗インタビュー第一部 (11)

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牛田: 映画の評論を読むということになると、私の世代(1980年代)では蓮實重彦さんだったんです。ですから私の世代は、映画について書くという人は蓮實重彦さんだったです。松田政男さんのような評論や小川徹さんのような評論というのは当時知らなかったんですが、松田さんや小川さんのような評論が姿を消した。つまりそれはあまりかっこよくないというような風潮があったと思うんです。そこで蓮實調にしたらかっこいいのかなというような。
波多野: 小川徹と松田政男では活動した時期が違うし、批評の内容にもかなりの隔たりがありますが、それぞれ立場から「映画の政治性」を問題にしていたという点では共通しているのかも知れませんね。それに対して、蓮実重彦の批評は、映画の背後にある政治イデオロギーを論じるようなことはない。蓮実は映画を「解釈する」ことを避けている。なぜなら、「解釈」という行為はある現象を前にして、現象それ自体について少しも語ることなく、つねにその背後にある観念を語るからです。蓮実は映画の表層に留まり、表層そのものについて語ろうとしています。彼の著書『表層批評宣言』を貫くのは、そうした「反解釈」的な態度だろうと思います。しかし反解釈的な批評態度というのは、映画をサカナにして思想を語ることを嫌って、もっと映画そのものに肉薄しようとした『シネマ69』という雑誌全体に、すでにその萌芽をみることができると思います。cinema3.jpg むろんその態度をもっとも徹底して、しかも持続的に推し進めたのが蓮実重彦だった。1980年代には雑誌『リュミエール』が登場しますが、この雑誌はこうした蓮実の批評的態度がもっとも純粋に表現されたメディアだったと思います。 つい先ほども、「寡黙なイマージュの雄弁さについて」(『文学界』平成18年3月号)という蓮実の侯孝賢論を読んだところです。ここでは、侯孝賢の映画が、映画に登場する乗り物によって語られていました。侯孝賢の映画における男女の関係が、列車では好転するが、自動車では破滅に向かう・・・といった具合に、映画の出来事をあくまで表層の戯れとして、シニフェに回収されないシニフィアンの戯れとして語っています。その批評の見事な手腕は、誰にでも真似できるものではありません。蓮実の批評は、方法としてかなり用意周到な戦略のもとに練られたものであると思います。
牛田: 波多野先生の時代は、映画を一回見て書く、という状況だったと思うんですが、私たちは何回も見る状況にあります。映画とは、本来ファシズム的なものだと思うんです。ずっと座っていないといけない、内容に手を加えることもできない。でも、ビデオなら、ある程度私自身が時間を支配できます。ビデオで研究している私たちは、先生たちの世代より再読が可能なんです。再度、映画評論を日本で盛り上げるとしたら、再読を前提として考えねばと思います。
波多野: 「テクスト」という概念は、再読を前提としています。読まれるたびに、その都度新たな姿を現す。むろん批評性ということになれば、テクストへの新たな読みでなければなりません。たとえ何回見たとしても、すでに誰かが語ったことを繰り返しても意味がないわけですから。

映画評論家 波多野哲朗インタビュー第二部 (1)

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第二部

牛田: 70年に歩行者天国が始まって、70年代前半に『深夜特急』の沢木耕太郎さんが、確か新宿から外の世界へ旅立ちました。60年代前半、小田実さんは自分たちのお金では行けなかったと思うんです、その時代は。でも70年代前半の時点で、友達のお金をかき集めてバス旅行に行く。小田さんが60年代前半で、沢木さんが70年代前半。その10年間に、日本が豊かになってきて、沢木さんみたいに若い人でもお金を集めて日本から外の世界へ出て行く。波多野先生の時には行けなかったのですか。


波多野: よほど経済的に恵まれていないかぎり、自分のお金ではとても行けなかった。
牛田: 新宿のヒッピーなんかはかなりの数が新宿から外国へ出て行ったんですが、新宿に集まっていけば新しいことが見つかると思っていた若者が、ここには「ない」と思ったときに、やはり「外国」にということで出て行ったんでしょうか。


波多野: ヒッピーたちにはサブカルチャーを共有する感覚が基本にあるわけです。だから彼らは旅行の場合ももっぱらサブカルチャー的世界を歩いたのでしょう。好んでマージナルな社会に出向いて、その底辺に近いところを、リュックひとつで放浪する。だから、新宿にいるときと心理的にはそんなに変わらなかったんじゃないでしょうか。

映画評論家 波多野哲朗インタビュー第二部 (2)

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牛田: 私なんかは、それにすごい影響を受けてしまって、中国一周をしてきたんですけど。先生の場合は?
波多野: 私の中にも放浪者の血が流れています。はじめての外国旅行は1968年のチェコスロバキア行きでした。まだ1ドルが360円の時代です。しかも外貨割当てが500ドルだから、すぐにお金がなくなってしまう。「プラハの春」のドゥプチェク政権下の「世界青年映画人会議」に招待されたんですが、ひどい貧乏旅行でした。日本海を船で渡って、シベリア鉄道で行ったんですからでね。プラハ郊外の古城が会議場でした。『去年マリエンバードで』に出てくるような古い館で、世界各国からやってきた映画学校の教師や学生たちと一緒に、ろくろく言葉も通じないまま、一週間ほどそこで暮らしました。明日にもソ連の戦車がプラハに再侵入してくるのではないかという緊張の毎日でした。それぞれの国を代表してやってきた人たちですが、ほとんどが汚い格好のジーンズ姿だった。長髪のボサボサ頭で。まさに政治的なムーヴメントとサブカルチャーとが混じり合っていた時代だった。
牛田: やはり、そういった経験があって、都市論に興味を持たれたのですか。
波多野: 以来、世界のマージナルな部分あるいは境界線(ボーダー)を歩き回るというのが、ぼくの旅行のテーマになりました。その最初がチェコでしたが、あのあとすぐにドプチェク政権はソ連によって潰されて「プラハの春」は終ります。都市論をはじめたのは別の理由からですが、いま振りかえってみると、都市を含め好んで長期滞在した場所は、世界のどちらかといえば「周辺的」「境界的」かつ「異端的」なところばかりです。たとえば壁に分断されていた東西ベルリンとか、チャウシェスク政権崩壊直後の銃弾痕も生なましいティミショアラとか、ユーゴスラヴアの都市とか、ソ連崩壊直前のスワネチヤ(グルジア)やグローズヌイ(チェチェン)、ラオカイ(中越国境)、カシミールなどなど。その中にはいま外国人が入れなくなっている危険な場所がいくつもあります。

そう言えば、こうした旅行のはじまりはカシミールだった。80年代のはじめに、カラコルム山中に4ヶ月ほどいたことがあるんです。ここも現在はインド・パキスタンの紛争で、外国人は入れません。私の友人の登山家が、チョゴリサという8000メートル近い山に登ることになって、その撮影をたのまれたのがきっかけでした。それまでのぼくは、実はどちらかと言えば青白い書斎派だったんですが、これ以来身体派になってしまったんです。仲間の登山家たちがみんな帰国したあとも、一人居残って放浪を続けながら、完全にアチラの世界にのめり込んでしまった。そのときのカルチャーショックで、東京での日常感覚までひっくり返っちまったんすね。それ以来です、世界の辺境をうろつくようになったのは。勉強もだんだん怠けるようになって・・・。あのときカラコルムに持っていったたった1冊の日本語の本が、レヴィストロースの『野生の叫び』だった。これがいけなかったんだ、効き過ぎちゃって。以来、マージナルな世界のことが、すぐに頭をかすめるようになってしまったんです。今でも、カイバル峠近くの乾ききった砂漠のなかのパシュトン人の部落に行ったときのことを思い出す。銃眼のついた高い土塀に囲まれた家で、銃弾帯をつけた屈強の大男がそれはそれは冷たい一杯の水をご馳走してくれた。あんなに美味い水は、後にも先にも飲んだことがなかった。そんな彼らも、いまごろは米軍のアルカイダ掃討作戦の中で逃げ回っているんだろうか、などと東京の街を歩きながら思い出して、急に背中が熱くなったりするんです。すると東京で毎日繰り返している生活のリズムが、だんだん狂ってくるんです。

映画評論家 波多野哲朗インタビュー第二部 (3)

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牛田: 時代的には、小川紳介さんの頃と重なるんですか?
波多野: 小川紳介は1996年に『青年の海』を作り、67年の『圧殺の森』『現認報告書』で注目を集めます。小川のスタートのほうがはるかに前です。ときは新左翼運動の最盛期で、小川の映画はその中で一挙に注目を集めはじめたのでした。私は当初、小川という人はもっぱら新左翼運動の政治的イデオロギーに沿った映画を作る人だと思っていました。しかし彼が三里塚に入って作りはじめた一連の三里塚闘争のドキュメンタリーをよくよく見ると、どうもそうではないと感じはじめたのでした。彼は三里塚に住む農民たちの生活に流れている豊かな時間の流れを描こうとしているのであり、闘争はその一局面だったのではないか、と思へたのです。以来、私は小川プロダクションの仕事に深い関心を持つようになって、何本もの作品論や作家論を雑誌に書きました。やがて小川紳介は新左翼運動の渦中にいた人たちからも、かなり批判的に見られるようになりました。「小川の奴は日和って、三里塚の激しい闘争をすこしも撮らずに、年寄りばかり撮っている」と。
牛田: 先生は三里塚へは?
波多野: 行ったことはありますが、反対運動には直接参加してはいません。三里塚との関わりは、あくまで小川の三里塚映画を介してのことです。映画の上映運動には応援に出かけたことがあります。話は変わりますが、私はある本に「三里塚のお婆さんたちは、みんな美しい」と書いたことがあります。いわゆる美人だという意味ではないんです。実際、直接彼女たちに会ったときも、別に美しいとは思わなかった。ところが、小川の映画に出てくると、何故かみんな美しいのです。ドキュメンタリーはつねに対象を忠実に描こうとしているけれども、言うまでもなくそこに描かれているのは対象それ自体ではなく、対象に対する眼差しでもあるのです。三里塚の人びとに向ける小川の眼差しは、愛に充ちていました。小川プロダクションってのははじめのうちは何十人もいたんですが、新左翼に批判されてから学生たちはどんどん出て行ってしまいます。それで、三里塚の農民たちと野良仕事も一緒にやるような人たちが10人くらい残ったんですね。

映画評論家 波多野哲朗インタビュー第二部 (4)

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牛田: 大学生のときに、小川さんの助監督をされていた福田克彦さんにずっと教えてもらっていました。福田先生は、映画監督というよりも、ジャーナリストなんだなという印象を受けたんですね。波多野先生は、映画評論家として、もし一緒にくっついているのなら、それに対して加担する、というのはあるんですか。
波多野: ありますね。ドキュメンタリーの公共性、中立性というのをほとんど信じていませんから。たとえば各放送局のカメラは、衝突のさなかでも、みんな機動隊に守られた安全な場所にしっかりカメラを据えて、あたかも中立であるかのように上から撮っている。そしてその映像が茶の間のテレビに流れるのです。そんな曖昧な映像が中立だなんてとんでもない。CNNのバクダッド攻撃の映像がニュートラルでないのと同じです。それに対して小川プロの場合は徹底して、抵抗する農民の側から、機動隊に攻められている側から撮っている。その意味では一方的です。しかし、かと言って恣意的ではないのです。小川の映像には、空港反対同盟から寝返った人たちも登場するし、発言もする。中立の意味が違うのです。これは水俣を撮り続けた土本典昭の場合にも言えます。土本は一貫して水俣病の被害者の側に立っている。しかしそのカメラは、水俣病の補助金で豊かになって、立派な家を建てて住んでいる人も映している。それを映すことは、現実的な政治の尺度から見ればマイナスかも知れない。でもこれらの映画には、現実的な尺度には還元されない映画としてのモラル、あるいは愛があるのです。
牛田: 体験していくということと、評論・言葉との折り合いは、どうやってつけるんですか?
波多野: 問題は言葉のあり方だと思います。体験をそのまま言葉にすればいい、というほど事は単純ではありません。言葉は体験に根ざして入るが、体験は体験、言葉は言葉です。体験を言葉に置き換えるにしても、体験のすべてが言葉に還元できるわけではありません。それどころか、体験すればするほどかえって言葉になりにくいということさえあります。映画体験と映画批評との関係も同様です。大学という世界には、明らかに映画が嫌いな映画研究者がざらにいます。映画体験は乏しいのに、映画に関する文献をまとめる力量と一定の表現力・筆力とがあるので、それなりにサマになる論文が書けてしまうのです。一方、映画をあまりに深く体験したばかりに、言葉にならないその体験にいつまでも向き合って、逆に論理的に破綻することもあるのです。だから大抵はそういう危険を回避して、ありきたりの方法で、ありきたりの言葉で論文をまとめてしまうのですが、アカデミズムではときにそんなものが通用してしまうことがある。すくなくともバランスがとれていて、破綻だけは免れているからです。 しかし、真の新しさに挑むというのは、一種の賭けです。体験から新しい言葉を紡ぎ出すということは、結局はそういう危険ないし不幸を引き受けることなんじゃないでしょうか。言葉というのは完結した記号の体系ではありません。つねに意味が生成されていく側面をもっています。そして、映画について語るということは、まさにそうした瞬間に立ち会う機会を数多く持つことだと思います。問題は、映画体験から紡ぎだされたその新しい言葉が、驚きをもって迎えられる。そんな繊細な感覚が、いまアカデミズムにもジャーナリズムにも失われてしまっているということなんでしょう。情報だけが価値を持っていて。

映画評論家 波多野哲朗インタビュー第二部 (5)

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牛田: 私はカナダに留学していたので、日本ではほとんどされていないような、アメリカ映画、スピルバーグやハリウッド映画の研究がなされているのをよく見ています。すでに英語で読んだものが、再生産のように単に日本語で書かれていて幻滅したことがあるんですが。
波多野: 日本の映画研究に、欧米の映画研究の直輸入あるいは模倣が多いということですね。その通りだと思います。情報化社会ですから、それも早ければ早いほど値打ちがあるという訳で、すぐにコピーが作られる。 ところで、映画について語ることの難しさというのは、「引用ができない」ことに尽きると思います。小説や詩の言葉を、そのままみずからの文章に引用できる文芸批評とは異なって、映画批評は映画をみずからの文章に引用することは出来ません。文章によって映画についてなにごとかを語り始めるとき、その映画とはすでに映画の記憶でしかありません。たとえばいま見たばかりの映画について、いかに丁寧に言葉で記述しても、それはむろん映画の再現ではなくて、言語による映画の記憶の再構築でしかありません。映画はこうである、といった途端、それはもう映画ではない、映画の記憶について語っているんです。
牛田: 私の場合、何回も見て、聞いて、それで引用するようなことをしてしまうんですが、それとは違う次元の問題として?
波多野: ええ、何度見ても同じです。映画を引用することはできません。その都度記憶は更新されますが、記憶であることに変わりありません。映画の批評には、しばしば映画のスチール写真がはいっていますが、これは写真であって映画とは言えませんからね。あれは映画の記憶を呼び覚ますための手段かも知れません。かつて映画記号論が全盛期を過ぎたころ、フィルムをビュアーで1コマ1コマ止めて作品を分析していた学者がいました。画面の記号学的分析のためにそうしていたのですが、これが映画なんだろうかと私はいぶかしく思いつつ眺めていました。むろん、研究ですからなにをやっていけないというものではありませんが、私たちが映画と呼んでいるあの体験から、なんと隔たっていることか。

映画評論家 波多野哲朗インタビュー第二部 (6)

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牛田: 映画評論というのは、試写で見て、書くというものではないですか。やはり、1回みた中で評論を書く、というのは大事でしょうか?
波多野: 何回も見ることはいいことだと思います。もしそれが許されれば。ただし、映画の運動性を解体して、たんなる写真論に還元してしまうような議論は、それと同じことではありません。それは水(H2O)について語ろうとする人が、水素(H)と酸素(O)について語っているようなものです。それはともかく、たとえ同じ映画を10回、20回と繰り返し見たとしても、私は最初にそれを見たときの素朴な驚きを残しておきたいと思います。私はいまヒッチコック映画の作品分析をしていますが、むろん何度も見ているうちにあの独特のスリリングな恐怖感はなくなります。しかし私は、あのスリリングな恐怖感というのが一体何であったかを知るためにこそ何度も見ていたのであって、けっして恐怖感を忘れるために見ていたのではないということです。
牛田: 波多野先生の後ろには、観客がいるわけじゃないですか。観客の見た1回と、先生の見た1回、おそらくそこにインスピレーションはあると思いますが、先生が10回見て書いたのと、観客が1回見たのでは、違いがあると思います。
波多野: たしかに違います。でも僕は、自分が見た最初の映画体験を殺さないで、印象を語ります。私には映画体験というものを、知的な研究者や専門家にのみ固有な体験として限定したくないという願望があります。はっきり言うと、それは映画を学問の対象としてのみ位置づけたくないということです。たしかに鑑賞体験に質的な違いがあることは認めますが、かと言って観賞体験のヒエラルキーを作ることには反対なのです。

映画評論家 波多野哲朗インタビュー第二部 (7)

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牛田: 新宿文化劇場の観客論について研究していたのですが、映画評論家の方は映画を試写でみているので、映画館でみて論じている人が、私が調べた限り、田中小実昌さんと川本三郎さんくらいしかいませんでした。後世、私が参照したとき、その2人を除いて映画評論家の言っている「映画館」という場所はほとんど書かれていませんでした。映画館に行く、という大切さというものが、先生が大学で教えていらっしゃる都市論と、繋がると感じるんですが。
波多野: 都市はアノニマス(匿名的)な空間です。互いに素性を知らない人たちが集まる場所、それが都市の盛り場です。だから盛り場の映画館で映画を観るのと、配給会社の試写室で評論家として映画を見るのとでは、大きな違いがあります。映画館こそは、鑑賞体験のヒエラルキーともっとも無縁な場であると思います。 「映画の正しい見方」などというものはありません。そもそも映画には規範らしきものがないのですから。例えば、規範を持つ言語には間違ったつなぎというものがありますね。「明日、学校に行きました」「きのう、学校に行くでしょう」といった文章はだれにとっても間違いです。しかし映画には、そういう意味での間違いというものは存在しない。ほとんどの人がさっぱり理解できない画面と画面のつなぎはあるかも知れないが、それは解りにくいだけであって間違いではない。映画とは究極的に、「読み」によってしか成立しないところがあります。
牛田: 都市を歩くことと、映画評論との関わりについてうかがいたいんですが。
波多野: モンタージュという言葉をまつまでもなく、映画はそれ自体典型的な編集の産物です。そしてこの「編集」という概念こそが、都市的文化と深く結びついているのです。文化や芸術の中に編集物が大きな位置を占めるようになったのは1920年代のことでした。コラージュやフォト・モンタージュやアッサンブラージュといった手法はもちろんのこと、雑誌などの編集物が数多く刊行されるようになったがこの時代です。そしてこの時代は同時に、世界的に都市化が著しく進行して、つぎつぎと大都市が形成された時代でもありました。20世紀に形成された大都市は、一つの共同体が同心円的に拡大して形成れた都市ではなく、多数の共同体からの移民・移住者によって形成された都市です。したがって都市の文化は、いくつかの文化の異種混合によって成り立つ多中心的な性格を持つことになります。「編集」という概念は、まさにそうした土壌の上にこそ成立したのでした。ダダや構成主義といったこの時代の都市的芸術が、「編集」と深い関係にあることは言うまでもありませんが、なかでも映画のモンタージュがその典型でした。ベルリン市街を描いたヴァルター・ルットマンの『伯林大都会交響楽』、モスクワ市街を描いたジガ・ヴェルトフの『カメラを持った男』などの映画は、まさに映画と都市との抜き差しならない関係を示しています。

映画評論家 波多野哲朗インタビュー第二部 (8)

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牛田: 60年代のゴールデン街に、先生のお名前も見受けられるんですが。新宿とはどんな関わりがあったんですか。
波多野: 『噂の真相』に載ってた?(笑) なにか、あそこにしかない空気が漂っていたんです。 マイナーであることの自信に満ち満ちていたというか、そういう若者がいっぱいいてね。しゃべっているうちに友だちになったりした。あの迷路性が大事なんじゃないかなあ。新宿は地方から出てきた移住者にも開かれた街だった。それが田舎者のぼくの肌に合った。銀座は、東京人の街、エリート・サラリーマンの街。浅草は、江戸風情の街。その点、新宿は、東京に出てきた翌日から、気楽に入り込める町だった。もっとも今は、アジアの人たちに開かれた街になっているらしいが・・・
牛田: 今だと、仲間同士でつどって飲みに行くんですが。当時は、ひとりでも、誰かに会うために新宿に飲みに行った、というのがよくわからないのですが。
波多野: 喧嘩もあったけど、仲良くなった奴も多くてね。いろんなものが混じり合っていて、何が起こるか分らないようなところ、それが面白かったんだろうと思う。なんとなくスリリングで。
 年老いた今でも、ぼくはときどきそういうスリルを求めて旅に出ます。1998年にオートバイでユーラシア大陸を横断したのも、その一つでした。1万6000キロを2ヶ月かけてオートバイで走りました。アジアとヨーロッパとが、地続きであること、つまり溶け合っていることを実感として確かめたかったからなんです。アジアの風景が少しずつ変わっていき、いつのまにかヨーロッパになる。むろんその間には国境というものがいくつもあって、国家が仕切りを作っているんですが、それはあくまで人工的な境界線。実際に走ってみると、いろんなものが連続している。中国の水餃子は、ロシアに入るとお汁が減って「ペリミニ」ってものに変わるけど、味はとても似ている。道路で売っている焼肉が、羊肉から豚肉へと少しずつ変わっていく。アジアの文化がとぎれることなく変化しながらヨーロッパになっていく。中間では二つが混合し、融け合っているのです。日本から飛行機でヨーロッパに行くと、いきなりヨーロッパで、二つはまったくの別の世界です。しかし陸路だと、無限の中間項が発見できるのです。
  そのような体験が、どこか映画の体験に似ているように思えるのです。