編集者・新井信 編集人生学(1)

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編集者・新井信  編集人生学

  

新井信(あらい・まこと)プロフィール(本人による)


 1937年に幻の満州国で生まれ、幸いに残留孤児をのがれる。文学部志望を父の懇請で早稲田大学商学部へ。巧みに会計金融の授業を避けつつ、幸いに文藝春秋に入社。或る日、本流の雑誌編集部から未開の荒野・書籍編集部に異動。幸いに多くの天才作家たちと出会い、書籍部門は社の2本柱に成長。スクープに昂揚し、トラブルにアドレナリンを沸かせつつ、編集総責任者を幸いに無事退任。現在、日芸の非常勤講師として、幸いに優しき若者たちに囲まれる???


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主な担当作品



●ノンフィクション
桐島洋子『淋しいアメリカ人』(大宅賞)『マザー・グースと3匹の子豚たち』他。
真鍋博『ひとり旅教育』他。
畑正憲『ムツゴロウの青春記』以下ムツゴロウシリーズ多数。
沢木耕太郎『若き実力者』『敗れざる者』『テロルの決算』(大宅賞)他。
佐野真一『性の王国』他。
田原総一朗『通貨マフィア戦争』『日本官僚論』他。
鈴木明『リリー・マルレーンを聴いたことがありますか』他。
横井庄一『明日への道』
千葉敦子『乳ガンなんかに敗けられない』他。
ドウス昌代『ブリエアの解放者たち』『日本の陰謀』(大宅賞)他。
上坂冬子『男装の麗人・川島芳子伝』他。
近藤絋一『サイゴンから来た妻と娘』(大宅賞)『バンコクの妻と娘』他。
中野不二男『カウラの突撃ラッパ』他。
佐々敦行『目黒警察薯物語』『東大落城』以下危機管理シリーズ多数。
●エッセイ
伊丹十三『ヨーロッパ退屈日記』『女たちよ!』『再び女たちよ』他。
東海林さだお『ショージ君のにっぽん拝見』以下ショージ君シリーズ多数。
玉村豊男『食の地平線』他。
竹腰美代子『いつもお陽さま家族』
松山猛『贅沢の勉強』他。
岸田秀『不惑の雑考』他。
倉本聡『新テレビ事情』他。
向田邦子『父の詫び状』『あ・うん』他。
群ようこ『別人「群ようこ」の出来るまで』他。
安部譲二『塀の中の懲りない面々』他。
和田誠『銀座界隈ドキドキの日々』

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編集者・新井信 (2)

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雑誌は、絶対的に編集長のもの

山下 文学研究をするにあたり、編集者というものの役割を最近考えます。編集者研究という分野はまだ確立されていませんが、今日、新井先生にお話を聞くことで、文学における編集者の存在というものをクローズアップできたら、と思います。
 まずは、先生は『週刊文春』や『文藝春秋』などの雑誌の編集者もやっておられたということを聞きましたので雑誌編集の仕事についてお聞きしたいです。 

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新井 まず言っておきたいのは、雑誌というものは、絶対的に編集長のものなんです。雑誌の全性格を支配しているといってもいい。たとえ社長、役員といえども、その雑誌の編集内容には口を出せない。その代わり、雑誌の販売部数が伸びなければ、すべての責任は編集長にあるわけです。売上げがおもわしくないと、役員会ですぐ編集長更迭が話題にのぼるくらいです。編集長の一般的な任期は、およそ3年からよくて5年でしょうね。その間に実績を残さないと、次がないんですよ。雑誌の実権を握っている反面、その立場はきわめて厳しいものがありますね。
編集部員の数は、月刊『文藝春秋』だと12人くらい、『週刊文春』で50人くらいかな。『Number』だと20人くらい、『文学界』だと4、5人です。週刊誌などは外部からの契約編集者で足りない人員を補っています。
 雑誌というのは、月刊誌と週刊誌に大きく分かれるけれども、なんといってもタイムリーな企画力が勝負なんです。その他に取材力や文章力も必要ですね。月刊誌でも、話題の中心人物を取り上げる場合は、ご本人は大抵文章が書けませんから、編集部員がその人の名前で記事をまとめます。最後に忘れてはいけないのは、肉体的にも精神的にもタフでなければならない、つまり体力です。

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編集者・新井信(3)

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タイトル力は最大の武器

山下 週刊誌と言えば中吊り広告で、絶対見てしまいますよね。「中吊り」大賞もあるくらいですし。大阪芸術大学は、その「絶対見てしまう」を利用して、大学の広告を週刊誌の中吊りを真似て作ったそうです。

新井 中吊り広告は、編集長が毎週頭をしぼって作ります。とくに週刊誌では、タイトルの上手な編集長の雑誌は売れ行きがいいと言われています。タイトル力は最大の武器なんですよ。

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山下 タイトル力、文章力、取材力、企画力、そして体力。雑誌編集に必要なチカラがよくわかりました。続いて、書籍編集のお話をうかがいたいのですが。

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編者者・新井信 編集人生学(4)

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群ようことの出会い

山下 そこで、群ようこさんも見出したんですね。当時まだOLだった群さんに書き下ろしの単行本『別人「群ようこ」ができるまで』の話を持っていったのは新井先生だと聞きました。あの本では新井先生の名前は発行人のところに出ていますが、もその頃はもう経営陣の方にいらっしゃったんですか?

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新井 僕は出版局長のころでも、「ゲラ中毒」と言われながら(笑)現場で本を作っていたんです。当時、群さんは勤務先の『本の雑誌』に見開きコラムを「木原ひろみ」の本名で書いていました。毎月、注目していたので、すでに他社から話があるのかなあと思いながら、新宿の事務所まで会いに行ったんですよ。地下にゲイバーがあるような盛り場の小さなビルでした。どこもまだ話がないというんで、それではと書き下ろしを勧めたんです。出来上がるまで1年以上かかったかなあ。そうこうしている間に、文春が声を掛けるなら、『本の雑誌社』のほうでも連載をまとめて本に、ってことになったらしいんですね。それで『午前零時の玄米パン』が先に出てしまったわけです。もっとも、その出版記念会では私も挨拶させられましたけど。
 『別人「群ようこ」ができるまで』に関しては、最初、なかなかいいタイトルが思いつかなかったんですよ。彼女の場合、日芸を出て、職を転々としながらも編集者になりたいという想いがあって、その辺のエピソードがとても面白おかしく書かれています。だから『編集者になれなかった女』とか、彼女がムっとするようなタイトルを考えてもいたんです(笑)。最終的には『別人「群ようこ」ができるまで』というタイトルは、ご本人が考えました。「群ようこ」を知らない人からすれば、受けが悪いタイトルですよね。当時はまだ、いってみれば無名だったんですから。結局、本が売れたのは、内容が面白かったからでしょうね。第1作だし、溜めていたものを一気に吐き出す迫力がありましたね。

編集者・新井信(5)

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編集者の本能と直感

新井 編集者というのは、日頃からあらゆる印刷物に目を配っているものですが、小さなPR誌かなんかで、短い文章の中にもビビっとくるものにぶつかることが多々あります。これは凄いぞと思うと、本当に背筋に寒いものが走るんですよ。思わず辺りを見回してしまうほどです。他の人が、あるいは、他の編集者がまだ気づいてないだろうかってね。同じネタを見ても、ピンとくる編集者と、感度の悪い編集者がいて、この差は大きい。私も30代半ばから40代にかけては、自分がこれはと思ったものはすべて当たるという過剰な自信がありました。私が面白いと感じたものは読者も面白いと思う、私が才能があると見込んだ人はホンモノだ、という風に。けれど、悲しいことに、いつか世間の反応とズレを生じることが出てくるのです。こうなると編集者も終わりでしょうね。文春の創立者菊池寛は「編集者35歳定年説」を言ってたそうですよ。
 各社に編集者は山ほどいるわけですが、どこの社にも仕事のデキル編集者の固有名詞は大体決まっていますね。この本を作ったのは、あいつに違いないってすぐ分かる。私はいつも、他社から引っこ抜かれるほどの力を付けろと編集部員にハッパをかけて来ました。たとえば『五体不満足』がヒットしたとき、乙武さんの出たテレビ番組を同じに見ていて、この人に書かせたら凄いものができる、すぐに会いに行こうと、他社の編集者が思い、うちの編集者は何故ぼんやりしていたのかって、嘆いたことがあります。つねに逃した魚は大きいんですね。

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 そして、これはと思ったらすぐに手紙を書くなり、会いにいくなりフットワークが肝心です。躊躇しているうちに他社が手をつけてしまうかもしれない。この著者の長所はどこか、何をテーマに書いてもらったらいいのかは、経験と勘で分かるはずです。「こういうことがお書きになりたかったのではありませんか」、相手のほうも「実はそれを書きたかったんです」という話になればハッピー。必ず良い作品が出来上がる。ただ、最初から売りたいという気持ちで本をつくってはいけない。必ず失敗します。自分が感動したから、面白かったから、結果として売れる本になった、読者がたくさん読んでくれたというのが理想ですね。編集者は「才能ある人を発見する仕事」とよくいいますが、それは不遜な言い方で、「良き才能に出会う」のです。

山下 群さんの場合も、他の作家の方の場合も、同じ本で単行本もあるし文庫もありますが、どのような違いがあるのですか?

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編集者・新井信(6)

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著者と編集者の関係は男と女の関係にも似ている

山下 書籍編集者の仕事についてもう少し詳しく聞かせてください。

新井 書籍の編集者には、大きく分けて三種類のタイプがあります。新人を発掘する人、既存の著者との関係をメインテナンスする人、職人的に本作りの上手な人、それぞれに得意がありますね。もっともそれぞれの比重の問題ですけどね。
私は一番目の編集者タイプを目標にやってきました。処女作を自分が手がけるっていうことは、ひとつの優先権を得たことでもあるんです。さらに望めば、他社に浮気をしないで、本は当社からだけ出してくれることです。アメリカなどではエージェントがなかに入って、著者は特定出版社の専属のようになっています。日本の場合は、作家はいろいろな社から本を出してマーケットを広げたいと思うのは自然なことでしょう。それでも、伊丹十三さんや東海林さだおさんなんかは浮気をせず文春だけから本を出してくれましたし、私が担当したほとんどの著者がうちを大事にしてくれたのは、編集者にとって最大の幸せでしたね。
著者と編集者との関係は、いわば男と女の関係に似ているかもしれませんね。始終、著者に電話をしたり、手紙を書いたり、メシを食ったり、コンスタントにコミュニケーションを保つことが必要ですよね。後発の編集者ほど、「先生、先生」って著者に言い寄ってくる。そうなれば、著者だって悪い気はしません。無名な頃を知られているのを疎ましく思う著者もいるでしょうしね。つねにラブコール、ラブレターしていないといけないんです。放っておいた隙に著者を他社へ持っていかれることも多いんです。

山下 畑正憲さんもおっしゃっていました。月に1回くらい、間があいて長くても3カ月に一度は必ず新井さんから連絡がくると。別に仕事の話ではなく、さりげない話をするだけだけど、しみじみやる気が起きるとおっしゃっていて。編集者は、マメな男であり、一流のホスト(笑)のようであり、人間関係の達人でないといけないんですね。

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編集者・新井信 (7)

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向田邦子との思い出

山下 では、堅い口を少々ゆるめていただいて(笑)、担当された作家の方の思い出話をきかせて頂けますか? さしさわりのない範囲で結構ですので。

新井 向田邦子さんには、デビュー作の『父の詫び状』を出させていただきました。『銀座百点』というPR誌に連載していたのをみて、素晴らしい新人がいるなあと、すぐに手紙を出したんです。そのときには一瞬早く、某社から電話で申し込みがあり、口約束したらしいんですね。ですけど、あなたのお手紙が素敵だったから、おたくで本を出したいと言ってくれました。もちろん、「ひとたらし」の向田さんのことだからお世辞だと思いますよ。某社を断ってくれたのですが、後でそちらの偉い人が私のところに乗り込んでくるという一幕もありましたね。その頃すでに、向田さんはテレビ界では大御所だったんですよね。テレビドラマには無知だったもので、うかつにも凄い新人が現れたと思ってたんです。ご家族のことを描いた作品のため、初めのうちはご家族からはとても嫌な顔で、担当者の私は見られていました。

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 私は前にも言ったように、文芸分野はあまり縁がなかったのですが、向田さんがその後直木賞を受賞されたので、数少ない文芸作家の担当になったというわけです。向田さんが航空機事故に遭われた日は、ちょうど東京に台風が接近していた日です。偶然にラジオをつけたら、K・ムコダといってるんです。遺体が帰られたときは成田の記者会見場にいましたし、一周忌の会では司会をしました。献杯というところを乾杯といって冷や汗をかきましたね。向田さんのマンションは5階でしたが、お通夜の晩、女優の岸本加代子さんの乗ったエレベーターが泣き声とともに下りていったのを思い出しますね。 
 その他にも、ノンフィクションから小説に転向して、賞の候補に挙げられた某氏の担当だったことがあります。今回は間違いないと関係者多数、飲み屋の座敷で待機していたんです。そこで選考会の現場にいる担当者に、もし落ちた場合は、私にまず電話してくれと頼んでおきました。取材でNHKがカメラを含めて数名も座敷にいるんです。いよいよ廊下の公衆電話が鳴りました。私が出ると「残念でした」というわけなんです。座敷はシーンとしている。ふすまを開けるのがものすごく恐かったですねえ。
 張り込んでいた取材陣も早々に引き上げ、待機していた知人たちも一人去り、二人去り、気がついたら著者と私の二人だけが残されていたんです。こういうときは、慰めようもありません。何を言っても嘘っぽい。がっくりしているその人と、冷や酒を黙々と飲み、夜明けに屋台のラーメンを啜って別れました。翌日になって、その人が会いたいというんです。うちで予定していた本を他社で出すことにしたと宣告されました。たしかに賞はうちの関係団体の主催ですが、社とは関係ない。まして選考は公平に行われて、われわれ社員は介入する余地もない。こんどは私のほうが泣きたかったですよ。それでも私が担当した3度目の候補作で受賞しました。そのときは互いに涙が止まりませんでした。

編集者・新井信(8)

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畑正憲、東海林さだおとの思い出 

山下 他にも、新井先生は多くの作家を発掘し、本を作られていますね。桐島洋子さん、沢木耕太郎さん、千葉敦子さん、東海林さだおさん、それから畑正憲さんのムツゴロウシリーズも手がけていらっしゃいますね。 

新井 畑さんの場合はねえ、すでに出ていた動物の本を読んでいたら、もしかしたら人間のことのほうが書きたいんじゃないかと思って、その頃彼が住んでいた相鉄線沿線までエッチラコッチラと出かけて行った。「そうです。じつは書きたいものがあるんです」ということになった。だけど、掘りコタツで話をしていたんですが、足元がゴソゴソする。何かいるんですかと尋ねると、ガマガエルがコタツの中で何匹も冬眠してるんですよ。びっくりしたなあ。そのときに書いて貰ったのがベストセラーになった『ムツゴロウの青春記』です。それからお付き合いが始まって、無人島生活をしたときも、北海道の北の果てまで何回も通いました。海が荒れると島に閉じ込められてしまって帰れない。打ち上げられた数十匹の花咲ガニを風呂桶で茹でて豪快に食べたのを思い出しますねえ。動物王国を作ったときも通いましたけれど、入口を入ると犬が数十匹もこちらへ向かって猛然と走ってくる。引いてはいけない、原稿を取りにきたんだぞと、顔中、カラダ全体を犬になめられ、よだれだらけで立ち尽くしていたこともあります。

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 東海林さだおさんと初めて会ったのは、私が週刊誌にいた時です。当時のデスクでいま昭和史の専門家になっている半藤一利が、連載漫画をお前の好きなようにしていいよというんです。とにかく、新人を起用して風穴を開けたいと思っていましたから、漫画専門誌でしか活躍していなかった彼に頼みに行くことにしました。中野駅近くの木賃アパートの暗がりからモサっと出てきて、一般週刊誌からの連載依頼に驚いていました。タンマ君というタイトルが決まるまで、何度も二人でああでもないこうでもないとやりました。最初のうちは絵もあまりお上手でなく、固くなったせいか面白味がうまく出ない。編集長は毎週役員会から帰ってくるたびに、あれは大丈夫かねというんです。その『タンマ君』がもう連載35年以上も続いているんですよ。文章を書いても、あの独特の文体で数十冊も本を出す売れっ子。椎名誠をはじめ、その後に続くエッセイスト分野でも兄貴株ですね。いまだに昔話をしながら居酒屋で一緒に飲んだりします。

編集者・新井信(9)

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安部譲二『塀の中の懲りない面々』誕生秘話

新井 著者が本を出した後、セールスプロモーションのために、編集者はテレビ化、映画化を働きかけたり、サイン会や朗読会を書店でやったり、出版記念会を催すことがあります。この世話係りも編集者がやりますが、案内状を出したり、会場を設営したり、飲み物の手配をしたり、受付をしたり、やることはたくさんあります。付け加えれば、お葬式のお手伝いだってやります。
 安部譲二さんの原稿を読んだのは、直木賞作家神吉拓郎さんの仲介でした。二人は麻布中学の同窓です。エッセイスト山本夏彦さんの雑誌『室内』に連載していた『府中木工所の面々』を読んで、背中に冷たいものが走りました。面白い、これは売れるぞと。早速連絡を取って会いましたが、元のお職業を感じさせないほど、素直に私の注文を聞いてくれました。タイトルは相談して『塀の中の懲りない面々』としたんですが、120万部以上のミリオンセラーになりました。出版後、ホテルで出版記念会を開くことになったのですが、元のご職業の面々もお招きしなきゃならない。いろいろな組の幹部が来るので、トラブルは許されない。仕方がないから、その筋からも受付を1人出してもらったんですよ。今その人は新宿方面の親分になっているそうですけど。うちのシマからそちらのシマへトレードしたんだから、安部をくれぐれもよろしく頼むと言った当時の親分の挨拶が、カタギの来賓にくらべてもいちばんうまかったと、山本夏彦さんが後で感心していました。

編集者・新井信 (10)

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いちばん悲しい別れ・近藤紘一

新井 私が担当した作家もすでに十数人も亡くなられていますが、いちばん悲しい思い出は近藤紘一さんです。彼はサンケイ新聞特派員でサイゴン陥落の日も現地に留まって報道した人です。現地で知り合った年齢不詳の子連れベトナム女性と結婚し日本に連れてくるんですが、その妻の娘教育がすさまじい。その様子をユーモアたっぷりに雑誌に書いていたのを読んで、これは教育論としてもイケるぞと思いました。それが『サイゴンから来た妻と娘』です。沢木耕太郎の『テロルの決算』と大宅壮一ノンフィクション賞を同時受賞したんです。僕が担当した本が二つとも賞をとった、あれは編集者生活でいちばん嬉しかったなあ。


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 家も近所だったので始終、往ったり来たりしていましたし、彼がバンコク特派員になったときも何回か原稿取りに行きました。帰国したある夏、胃潰瘍ということで虎の門病院に入院したんです。父上は胃がんの権威でしたから、最初はそうかと信じていたんですが、だんだん素人目にもおかしいなあと感じるようになりました。ご当人は夫婦で病院のベッドで寝たりして看護婦に顰蹙をかったりしてたんですが、だんだん肩が痛い、目がおかしいなどと言い出した。長いこと寝てるからだよと慰めたのですが、筆を持つのがしんどいなら、テープに吹き込んで小説でも書いたらどうだと薦めてみたりしたんです。
 翌年の1月、近藤家の縁者からもう命も残り少ない、友人たちにはあなたから伝えてほしいと言われ、一人ひとり喧騒のビアホールに呼び出しました。何故って、いい年をしたおじさんたちが泣くんですよ。周りがうるさいほうが目立たないでしょう。週に2、3回は見舞いに行ってたんですが、1月27日、たまたま他の書き手を熱海にカンヅメにして帰ってきたら、奥さんから電話があったという伝言がありました。最後には間に合ったんですが、ベッドを整理してたらテープが1本ポツンと転がってた。何も入っていませんでした。そのそばに何故か『白い巨塔』下巻だけがありました。彼は胃がんと知っていたんですね。
 奥さんに病院の廊下でお金がないどうしたらいいの、と泣かれたのには困りました。近藤家は代々医者の家、後を継がなかったばかりか、気に入らない嫁を連れてきたということで、実家とはうまくいってませんでしたから。お葬式ではベトナムルポでお世話をした司馬遼太郎さんが素晴らしい弔辞を読んで下さったのですが、お墓がない。ベトナム人は立派な墓を作るようですが、日本では無理です。遠いけれど、値段の安い富士霊園で納得させ、位牌は浅草寺に永代供養しました。墓にはうちの息子の運転で遺骨を運びました。奥さんはいまパリにいて、墓参りとビザ切り替えのため3年おきに帰ってきます。娘もフランス人と結婚して子供も中学生になり、昨年日本で会いましたが、まったく白人の顔だった。彼は富士の麓で苦笑しているでしょうね。

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編集者・新井信(11)

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小説家になりたい人は編集者になるべきではない

山下 いろいろな作家の方に接していて、編集者である先生も、何か、例えば小説とか、書きたいという衝動にかられたことはあるんですか?

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新井 ないですね。僕の持論としては、小説家になりたい人は編集者になるべきではないと思いますけどね。編集者は、あくまで、黒子に徹することができるかどうか、ですからね。物を書く人は、編集者のそういう姿勢に敏感です。誠心誠意、作家のために尽くせるかが大切でしょう。
 作家の姿を傍で見ていると、とてもああはできないと思いますよ。ものを書くのは重労働ですから。作家の文章を読んでいると、より質のよいものを求めるようになるから、この程度の自分の文章で、もの書きにはとてもなれないと思いますよ。でもね、もの書きになりたいという意識のある編集者は確かにいます。作者の書いているものに対して、内心でライバル意識を持つのはまずいでしょうね。
 

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編集者・新井信(12) 【最終回】

編集は人間対人間の仕事

山下 先生のお話を聞いていると、編集者として必要なことは、人間として必要なことそのもののような気がします。編集人生学とでもいうんでしょうか。
 そういえば、先生自身はなぜ編集者になったのですか? 先生の人生、というか生い立ちを聞かせててください。

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新井 恥ずかしながら、高校時代は文学少年だったんです。同人雑誌をやっていたのも事実だし。大学は早稲田の商学部です。文学部に行きたかったんだけれど、就職できる学部しか授業料を出さないぞと親に反対されてしまって。大学でもサークルで雑誌を出してました。皮肉なもんですね、幸いに大隈奨学金が貰えて4年間授業料免除になっちゃった。
そのころは日本の景気が上向きで、就職率のいい年だったんですが、一般企業は8月9月で決まり、マスコミだけは試験が10月なんです。待つ勇気が必要でした。出版社なんて怠け者が行くところだって親父に言われまして、散々嘆かれましたよ。法事のときなんて、親戚中からブーイングです。商学部で出版社なんて、よほど成績悪かったんですねって言われた、っていうんですよ。そういう環境だったんです。

山下 そうして文藝春秋に入社し、編集者として活躍後、今度は会社の経営陣のほうに行くんですよね。経営者としてどのようなことをされていたのですか?

新井 僕は、もめごとが起こる前に、それを鎮火させたり、編集経費に目を光らせる係。だから毎日社内を巡回して、いろいろな部署に行き、とくに女性社員たちの話を聞きました。すすめられるお菓子を全部食べて回ったんです。でもさすがに秘書からにこれじゃ糖尿病になってしまうと忠告されてやめました(笑)。いやいや、実際は雑誌と書籍の編集活動の管理監督です。雑誌の目次を事前に目を通したりね。とくに週刊誌は予定目次を見て、問題が生じないかチェックしたり、訴訟をはじめとするトラブルが起こったときには、中心となって対応にあたる、とかね。
 

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