安西水丸 インタビュー

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――イラストレーターがふり返る日芸時代――
安西 水丸(あんざい みずまる) 1942年東京生まれ。日本大学芸術学部美術学科造型コース卒業。電通、ADAC(N.Y.のデザインスタジオ)、平凡社勤務の後、フリーのイラストレーターとなる。 イラストレーターとして時代のトップを走り続ける一方で、小説家、エッセイストとしての評価も高い。朝日広告賞、日本グラフィックデザイン展年間作家優秀賞、キネマ旬報読者賞など数々の賞を受賞。著書に『メランコリー・ララバイ』(NHK出版)、『バードの妹』(平凡社)、『村上朝日堂の逆襲』(朝日新聞社/新潮文庫 文:村上春樹)、『青の時代』(青林堂)ほか。

ここに一冊の雑誌がある。その名は「るつぼ」。十五年も前に日芸の学生たちが発行した同人誌である。日芸に勤め始めて間もないこと、研究室の本棚の隅に保管されていたその雑誌を手にとり、「?」と思った。なぜ、あの安西水丸さんが表紙の絵を描いているのだろうか。
 文芸学科では、学生が作成した同人誌の類、実習で作る雑誌、ゼミで作成する雑誌、その他、様々な大学や同人サークルから送られてくる雑誌を、それこそ山の数ほど保管しているが、その中でもひときわ目立ったのが、この「るつぼ」であった。とくにお金をかけたきらびやかな装丁でもないが、安西水丸氏独特のイラストレーションが「何だ?」と思わせる特殊な吸引力を持っていた。売れっ子イラストレーターと無名の同人誌。このアンバランスな組み合わせが、この雑誌のお宝具合を物語っていた。
 安西水丸氏といえば、そのひょうひょうとしたキャラクターのデザインで、独自の存在感を見るものに与えるイラストレーターだ。イラストレーションは一度見たら忘れられないし、なんとも言えない、いぶし銀の入ったお茶目な感じは、渋さとかわいさを合体した「シブカワ!」の極致に達している。
 その後私は、「るつぼ」同人であった窪田尚・現日芸講師に出会い、なぜ安西水丸さんの表紙なのか聞いてみた。日芸の先輩だっていうんで、安西氏に思い切って頼んだら描いてくれたのだそうだ。
学生の熱意を受け止めてくれる安西氏とはどのような人なのだろうか。インタビューを試みた。


――安西さんは日芸の美術学科造型コース(現在のデザイン学科)のご出身ですが、まず、なぜ日芸に入ろうと思ったのか、お聞かせください。

安西 僕は、父親が建築家だったので、家に建築関係の本がいっぱいあったんです。そこでバウハウスの存在を知って、かっこいいなと思っていたら、日芸の美術学科の主任教授がバウハウスに留学されてて、それで決めたんです。大体絵を描く人はみんなそうなんだけど、最初は芸大に行こうと思うんですね。だけどデッサンの研究所に行って合格者の絵を見たらあまりにも上手いので、これはもう無理だと思って(笑)。それで僕でも入れるところはないかと調べていたらそのバウハウスという言葉に引っかかったんです。

――日芸には、バウハウスという言葉に一番惹かれて入ったということですか?

安西 そうです。バウハウスはカンディンスキーとか凄い人たちが教鞭をとっていて、ドイツで新しいデザイン運動をしたんですが、そういうものに憧れたんですね。僕が高校生の頃はまだ日本ではグラフィック・デザインとかイラストレーションは一般的ではなくて、建築史の中におけるバウハウスがあまりにも輝いていたから、それに魅了されたんです。ただ、個人的見解ですと、入学したらバウハウスとは何の関係もなかったですね。まあ結局、騙されたってことですけどね(笑)。

――安西さんと日芸の縁はそうやってはじまるんですね。当時日芸は四年間江古田校舎ですが、安西さんは東京のご出身ですよね。

安西 そうです、赤坂です。丸ノ内線で池袋に出て、そこから西武池袋線で通ってたんですが、試験を受けにきた時にまず、こんなところで四年間過ごすのは嫌だな、と思いました(笑)。他の美大も見学しましたが、一番設備も悪くて、学生も不真面目そうで、そういうところが僕に合ってるな、とも思ったんですが、江古田は嫌でしたね。池袋がまず用事のないところですからね。いつも授業が終わるとすぐに銀座に出て、あの辺で遊んで帰りました。

――なるほど。日芸のような都市型の芸術大学は、もうちょっと真ん中に出た方がいいんでしょうかね。

安西 そうです。仕事する場所や勉強する環境というのは非常に大事ですから。でも僕はその後十二年間講師をしていまして、その頃は江古田もちょっと面白いと思いましたよ。

――そういえば、安西さんは最近まで日芸で教鞭をとっていらしたんですよね。

安西:三年くらい前までやってました。

――どうして辞められたんですか?

安西 つまらないから辞めたんです。学生が不真面目だし、何の勉強もしないし、入りたくて入ったはずなのに学校には来ない、課題も出さない。一体どうしてでしょうね? 僕は学生時代、課題は全部出しました。学校はつまらなかったけれど入りたくて入ったわけだからちゃんと勉強もしました。4年間もの自由な時間があって、一応学生という身分を与えられていたというのは良かったと思うし、美術大学ということで周囲もそういう目で見てくれたというのもあるし、さまざまな意味で日芸に入ったということは良かったと思います。

――当時は大学のアトリエにこもりきりで作品を作っていたんですか?

安西 そういう貧乏臭いというか、田舎臭い学生もいましたね(笑)。僕はそういうのが嫌だったんで、終わるとすぐに帰って自宅でやってました。友達もいましたけど、東京の下町の職人の子が多かったですね。といっても四、五人かな。僕は割と大人しい学生で、派手なこともしなかった。ただ自分のやるべきことをやって卒業しようと思ってたので、淡々と目立たずやってました。だから先生も僕のことは知らなかったと思います。僕はたまたま電通に就職が決まったんですが、その頃、研究室の前を通ったら中から「この電通に入った渡辺(※安西さんの本名)ってやつはどんなやつだっけ?」という声が聞こえてきたんです(笑)。でもそれでいいんですよ。先生に知られなくても別にいいんです。

――しかし今ではデザイン学科出身者の顔としてご活躍ですよね。

安西 そうですか? 嫌ですね(笑)。よほど無能な学生を合格させているんでしょうね(笑)。まあ、僕は大人しくやってはいましたが、自信だけはありましたよ。

――具体的にイラストレーターになるという夢は大学生の頃からあったんですか?

安西 ええ、それは中学生のときからありました。僕はグラフィックデザインを勉強していたんですが、全てはイラストレーターになるための勉強でした。だから電通に入ったこともニューヨークに行ったことも、その後平凡社に入ったことも、全てはいずれイラストレーションを描くためでしたね。それに芸術学部というところには芸術かぶれみたいなのが多くて。芸術家はいいんだけど、芸術かぶれほど世の中に迷惑なものはない(笑)。僕は最初からきちんとした会社に入ろうと思ってました。要するにいずれフリーランサーとしてやっていくつもりなら、世界に通用する企業の入社試験くらいパスできないようじゃ駄目だと思うんですよね。みんなサラリーマンを馬鹿にするけど、じゃあ何処かの会社を受けてみろと言ったら受からないでしょう? それに大きい会社だったら、落ちてもそんなに恥ずかしくない(笑)。まあ僕は受かる自信がありましたが。(笑)

――日芸の場合、昔から、大きい会社に就職するのは写真学科の方がカメラマンで、というのがあるんですよね。

安西 僕と電通に一緒に入った中にも写真学科出身はいましたね。でも僕の頃にはデザイン学科も結構多かったんですよ。たぶん電通の偉い人が日芸で教えてたから、そういう幸運もあったんでしょうね。卒業制作もみんな優秀といわれている学生同志で組みたがるんだけど、僕は今から思えば僕がいなかったら卒業できなかったような学生を集めて作った。でも出来上がったものは「アイディア」や「宣伝会議」にも取り上げられました。そんなものですよ、実力ってのは。(笑)

―卒業制作はどういう作品を作ったんですか?

安西 僕の頃は、グループ制作と個人制作がありまして、グループ制作は公共物に対する提案、例えば時刻表とかです。僕は健康診断書を改訂してみようと思いました。健康診断書っていかにも病人臭いじゃないですか(笑)。だからもっと健康的にしようと思ったんです。そうしたらこれが結構評判が良かった。個人制作はイラストレーションを描きました。「オーシャンと11人の仲間」という映画が好きだったんで、それをイラストレーションで描いたんです。タイトルに「たち」を加えて少し文学性を出そうと「オーシャンと11人の仲間たち」として描きました。それも雑誌に載ったんです。僕はずっとイラストレーションの勉強はしていましたが、実際に自分の描いた物がどのように評価されるのかはわからなかったから、雑誌で取り上げてもらったときは正直嬉しかったですね。

――最初に安西さんが評価されたのが、その卒業制作なんですか?

安西 評価されたのかどうかはわからないけど、東京の美大の卒業制作の中から選ばれたってことは、それなりに良いと思ってもらえたんでしょうか。当時「アイディア」など、デザインの雑誌は少なかったし、そんなこともあって、こういうのに載ったら嬉しいなあ、と毎年見てたんで、ちょっと嬉しかった。

――名前を「渡辺」から「安西」に変えたのはいつ頃ですか?

安西 それは三〇歳をすぎてからです。結局イラストレーターにはなかなかなれなかったんです。電通に4年半いて、それからニューヨークへ行ってアメリカ人のデザイン会社で仕事をしたりしたけど、やはりイラストレーターにはなれない。なれないのにガツガツしたってしょうがないから、この際依頼する側の仕事を半端じゃなくきちんとやっておこうと思ったんです。そしたら、ニューヨークから帰国した時にたまたま平凡社が新聞で募集していたんで試験を受けて入ったんです。
 それで三二歳位の時ですか、嵐山光三郎という作家が当時「太陽」の編集部にいて、彼が僕に声を掛けてきて、自分は文章を書いてるんで一緒に仕事をしないかって。そこではじめてイラストレーターということになったんです。その時彼がペンネームにしろと言ったんです。嵐山光三郎というのは勿論ペンネームなんですが、自分が「あ」で始まるから君も「あ」で何か考えなさいって。そしたら祖母の実家が「安西」だったんで名字はそれにして、子供のころ最初に漢字を習った時から「水」という漢字が好きでずっとマークみたいにして使ってたんで「水丸」にしました。
 僕は世界的に見ても平凡な形でイラストレーターになっていますね。日本は恵まれた国で、二〇代でなれたりするけれどすぐに消えてしまったりする。僕はグラフィックデザインもきちんと勉強したつもりだし、ニューヨークへ行ったのだって別に好きで行ったわけじゃない。二〇代のうちに何処か外国で暮しておこうと思ったんです。三〇過ぎちゃうとみっともない生活ができなくなるけど、二〇代だったら夏はTシャツにジーパンでいいし、冬はコーデュロイのズボンとPコートがあれば過ごせる。要するに若さの良さですよね。27歳の時に電通を辞めて、本当はフランスに行きたかったんだけど、英語しかわからないからニューヨークに行きました。

――その時代というと、六〇年安保の頃ですよね。その頃はヒッピーなど外国に行く若者が多かったと思うんですが。

安西 六〇年安保の後ですね。いずれにしても僕はあまりヒッピーみたいなのが好きじゃなくて、とにかくきちっとしていかったんです。会社にもいつもスーツで行ってました。東京でちゃんと仕事ができたので、ニューヨークでできないはずがないと思っていました。でも変な日本人はたくさんいましたよ。皿洗いしたり。僕はそういうことをするなら、すぐ帰ろうと思っていました。幸運にもすぐ仕事に就けましたけどね。アメリカ人が七人でやっている小さなデザインスタジオでした。とても良くしてもらって、毎日「君は天才だ」って言われました(笑)。社長も副社長もイタリー系の人で、クライアントもイタリー系が多くて、東京から来たと言うとみんなすごく興味を持ってくれました。
 でも楽しくはなかったですね。刑務所に入ったつもりで、三年は我慢しようと思っていました。でもビザが上手くいかなくて、会社の人にも迷惑かける感じになってきたので二年で帰国しました。帰りは五ヶ月くらいかけてヨーロッパを旅したんですけど、段々日本に近づくにつれて不安になってきてね。ニューヨークを出てすぐは嬉しいんですよ。僕はニューヨークが好きじゃないから、これでやっとヨーロッパに行けるって、うれしかったですね。クイーンズボローで振り返って、朝靄の中に浮かぶニューヨークに向かって「二度と来るか!」って捨てゼリフを吐いたのを覚えてます。(笑)。
 まだ電通にいた頃かな、神保町の古本屋に「文化地理大系(フランス篇)」という本が売っていて、その巻頭で画家の岡本太郎さんがエッセイを書いていたんですね。そこに大人になってパリに行って、飛行機の窓から眼下に広がるパリの街を見た時、青春の思い出が残酷なほど蘇へってきた、という一文があったんです。青春の残酷なほどの思い出、とはどういうことなんだろうとすごく気になって、それも若い頃に外国へ行こうと思った理由の一つですね。そんなことは実際にはあり得ないんですが、若かった頃の自分の時間が流れている、そんな場所が日本以外の国に欲しかったんです。僕はたまたまそれがニューヨークになったわけです。

――若かった頃の自分の時間が流れている場所、それは日芸ではないんですね?

安西 それは全くないです。むしろ忘れたい(笑)。

――日芸で学んだことで役に立ったことはありますか?

安西 全くありませんね。(笑)

――厳しいご意見!

安西 ただ4年間芸術学部の雰囲気の中にいたということだけは良かったと思います。いろんな学科があって、それぞれに特色があって、何か不思議な雰囲気があって、それは良かったですね。それに「日本大学芸術学部美術学科」という字面の美しさが気に入っていましたね。いつかプロフィールを書く時に多摩なんていう字は書きたくないし、武蔵野も田舎臭くて嫌だし。だから自分の名前を書いた後に日本大学芸術学部美術学科と書く、こんな美しい字があるのか、ってね。これに関しては美術学科が一番美しいと思いますよ。富士山をバックに桜が舞っているような感じで、この字は捨てがたいと思いました。文字はビジュアルですからね。

――安西さんの「水」という文字へのこだわりや、「日本大学芸術学部美術学科」という字面の美しさのお話を聞いて、面白いなと思ったんですが、イラストレーションと文字表現・文章表現の関わりや違いについてどう考えていらっしゃいますか?

安西 僕は絵はそんなに上手い方ではないんです。ただ目の前にビジュアルが展開するというのが面白くて、子供の頃からよく絵を描いて遊んでいたんですね。父親が早くに死んだんで、母親を喜ばせる為によく勉強もしました。だから本もよく読んではいたんですが、何となく本を読めと言われるのが勉強をしなさいって言われているみたいでね。やっぱり絵を描く方が楽しかった。本で読んだ話を絵に描いてみたり、そういう遊びを考えたりしましたね。文章を書き始めたのは四十くらいの頃で、当時の「小説現代」の編集長が、その頃僕は目次に絵を描いていたんですが、彼がある日「水丸さん、何か書いてみませんか?」と言うんです。僕はてっきり絵だと思って、軽く「いいですよ、何枚くらい描きますか?」とか言ってたんですけど、原稿を頼まれてるというのがわかってとても驚きました。でも別に文章を書くのは嫌いじゃなかったんで、まずエッセイの連載を始めたんです。二号目が出た頃から、いろんな編集者が電話してきてすごく誉めるんですよ。それがおかしくてね。文章といっても日本語だし、外国語で書くわけじゃないしね(笑)。でも文章を書くのは好きですね。ただ、職業的には、文章を書く人間より、絵を描く人間の方が清々しい感じはしますね(笑)。そういう点ではイラストレーターといわれる方がどちらかというと好きですね。それに僕は芸術ってよくわからない。昔からいるでしょう、耳切ったり、血を吐いたり、原稿用紙ちぎったり、ああいう感じが嫌なんですね。楽しけりゃやるけど、苦悩してまでやるのが嫌なんですね。文章を書くのは基本的に好きだと思うからやってます。今、アメリカの小説の翻訳をしています。

――安西さんはご自分の文章にご自分でイラストレーションを描かれたりしますよね。他の人の文章にイラストレーションを描く、或いは安西さんの文章に他の人がイラストレーションを描くのを比べてみてどうですか?

安西 自分の文章に他の人のイラストレーションが付くと、その上に白い紙を貼り付けて自分で描きたくなりますね(笑)。何でこんなに文章を理解できない絵を描くんだろうと思います。そういう意味で挿絵というのはとても難しい仕事だなと思います。

――私は宮沢賢治を研究しているんですが、賢治は自分の作品に挿絵を入れたがっていたらしいんですね。安西さん、賢治の挿絵、何か思い浮かびますか?

安西 思い浮かびますよ。「注文の多い料理店」のランプを持った暗い感じのオジサンとかね。あの人のは大体そういうのが多い(笑)。

――ええ(笑)。宮沢賢治はお好きですか?

安西 そんなに好きじゃないけど、すごい人だとは思います。作品は全部読んでます。「春と修羅」なんか好きですね。「どんぐりと山猫」も子供の頃大好きでしたね。非常にビジュアルな文章を書きますよね。文字というのは象形文字ですから、漢字なんてそのまま絵ですよね。僕の「水」という文字もシンメトリーがちょっと崩れてて、画数が少ないわりにインパクトがあっていいと思うんです。僕はデザインを勉強していましたから、ペンネームを決める時に紙に描いてみたんですね。これならいくらサインを求められても腱鞘炎にはならないと思ったんです(笑)。

――文章のお仕事の方で仲の良い作家はいらっしゃいますか?

安西 僕は作家の友達というと村上春樹さんとか嵐山光三郎さんくらいしかいないんだけど、村上さんも作家みたいな感じは全然見せないし、一緒に食事をする時もほとんど小説の話はしないですね。彼は大変きちっとしていて時間は守るし、もちろん原稿の締め切りも守るし、昔の作家みたいに頭を掻きむしったりもしない(笑)。もちろん作家だからいろいろと大変なんだろうけど、規則正しく、それでいて天才的な仕事をする。本当にすごい人だなと感心します。
僕はたまたま彼と友達になったのはひとつの運命のようなもので、はじめは彼が僕の絵を面白がっているっていうんで、ある編集者が会いませんかって。彼はまだ「ピーターキット」というジャズの店やっていました。会ったら、何となく気が合ってね。それで一緒に仕事をするようになって、何冊か共著を出しましたね。
彼の小説に時々ワタナベノボルという人物が出てくるんですが、あれは僕の本名なんです。よくわからないけど、何かワタナベノボルにはこだわりがあるらしくて、「ねじまき鳥クロニクル」ではワタヤノボルっていう悪い男が出てくるしね。以前彼がある雑誌のインタビューで答えているのを読んだけど、「安西水丸さんに本名を訊いたら「僕はワタナベノボルっていうんだけど」って言われて、それが僕のなかに記号のように返ってきたんです」と言ってましたね。

――文章を書く人にとって、自分のインスピレーションを共有できる絵を描く人というのは大事なんですね。

安西 それはあるかもしれませんね。

――今、企画をいただいていて本当の日芸力をいうのを探っているんですが、安西さんが考える日芸力とは何でしょう?

安西 日大芸術学部の卒業生にはご存知の通り有名な人がたくさんいて、朝日新聞の人名事典を見ると三分の一は日芸だとよく言われるんですね。イラストレーターで言うと昔は多摩美術大学が圧倒的に多かったんですが、日芸デザイン学科出身も今は結構多いんですよ。僕は既にその中で長老みたいになってますけど(笑)。そういう意味では面白い学生がたくさん出てきてるんですよ。中途半端な学生が多い中で、きちんと信念を持ってやってきた学生は世に出てきますね。

――確かに日芸に入ってくる学生は感性のいい方がたくさんいますね。

安西 そうですかね。まあ、大学は勉強するところだから、やっぱり先生というものは大事ですよ。一言でも印象に残ることを言ってくれれば、それでその学生は進んでいけるわけじゃないですか。そういうものを僕は日芸でほとんど感じなかったですね。何ていうか、僕が先生に失望していたこともありますがね。一人だけ、建築のパースを描いた時、君はイラストレーションをやったら成功するぞって言ってくれた先生がいましたが。

――大きな一言ですね。

安西 そうですね。何となく言ったんでしょうね(笑)。まあ、いずれにしても、一流のものに出会うことはとても大事ですよね。僕は子供の頃、南房総の千倉で過ごしていたことがあるんですが、何もないところでしたけど、海だけは一流でしたね。その海は僕にとって大切なものになっています。

――海は一流、いいですね。
  それでは最後に日芸の後輩に一言、お願いいたします。

安西 いろいろ厳しいことを言ってきましたけど、まあ、芸術学部は嫌じゃなかったんでしょうね。四年間真面目に過ごしたんですから。とにかく大学は勉強するところだということを認識していただきたいですね。

――ありがとうございました。

安西水丸 インタビュー(2)

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――安西さんは日芸の美術学科造型コース(現在のデザイン学科)のご出身ですが、まず、なぜ日芸に入ろうと思ったのか、お聞かせください。


安西 僕は、父親が建築家だったので、家に建築関係の本がいっぱいあったんです。そこでバウハウスの存在を知って、かっこいいなと思っていたら、日芸の美術学科の主任教授がバウハウスに留学されてて、それで決めたんです。大体絵を描く人はみんなそうなんだけど、最初は芸大に行こうと思うんですね。だけどデッサンの研究所に行って合格者の絵を見たらあまりにも上手いので、これはもう無理だと思って(笑)。それで僕でも入れるところはないかと調べていたらそのバウハウスという言葉に引っかかったんです。

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安西水丸 インタビュー(3)

――名前を「渡辺」から「安西」に変えたのはいつ頃ですか?

安西 それは三〇歳をすぎてからです。結局イラストレーターにはなかなかなれなかったんです。電通に4年半いて、それからニューヨークへ行ってアメリカ人のデザイン会社で仕事をしたりしたけど、やはりイラストレーターにはなれない。なれないのにガツガツしたってしょうがないから、この際依頼する側の仕事を半端じゃなくきちんとやっておこうと思ったんです。そしたら、ニューヨークから帰国した時にたまたま平凡社が新聞で募集していたんで試験を受けて入ったんです。
 それで三二歳位の時ですか、嵐山光三郎という作家が当時「太陽」の編集部にいて、彼が僕に声を掛けてきて、自分は文章を書いてるんで一緒に仕事をしないかって。そこではじめてイラストレーターということになったんです。その時彼がペンネームにしろと言ったんです。嵐山光三郎というのは勿論ペンネームなんですが、自分が「あ」で始まるから君も「あ」で何か考えなさいって。そしたら祖母の実家が「安西」だったんで名字はそれにして、子供のころ最初に漢字を習った時から「水」という漢字が好きでずっとマークみたいにして使ってたんで「水丸」にしました。
 僕は世界的に見ても平凡な形でイラストレーターになっていますね。日本は恵まれた国で、二〇代でなれたりするけれどすぐに消えてしまったりする。僕はグラフィックデザインもきちんと勉強したつもりだし、ニューヨークへ行ったのだって別に好きで行ったわけじゃない。二〇代のうちに何処か外国で暮しておこうと思ったんです。三〇過ぎちゃうとみっともない生活ができなくなるけど、二〇代だったら夏はTシャツにジーパンでいいし、冬はコーデュロイのズボンとPコートがあれば過ごせる。要するに若さの良さですよね。27歳の時に電通を辞めて、本当はフランスに行きたかったんだけど、英語しかわからないからニューヨークに行きました。

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安西水丸 インタビュー(4)

――安西さんの「水」という文字へのこだわりや、「日本大学芸術学部美術学科」という字面の美しさのお話を聞いて、面白いなと思ったんですが、イラストレーションと文字表現・文章表現の関わりや違いについてどう考えていらっしゃいますか?


安西 僕は絵はそんなに上手い方ではないんです。ただ目の前にビジュアルが展開するというのが面白くて、子供の頃からよく絵を描いて遊んでいたんですね。父親が早くに死んだんで、母親を喜ばせる為によく勉強もしました。だから本もよく読んではいたんですが、何となく本を読めと言われるのが勉強をしなさいって言われているみたいでね。やっぱり絵を描く方が楽しかった。本で読んだ話を絵に描いてみたり、そういう遊びを考えたりしましたね。文章を書き始めたのは四十くらいの頃で、当時の「小説現代」の編集長が、その頃僕は目次に絵を描いていたんですが、彼がある日「水丸さん、何か書いてみませんか?」と言うんです。僕はてっきり絵だと思って、軽く「いいですよ、何枚くらい描きますか?」とか言ってたんですけど、原稿を頼まれてるというのがわかってとても驚きました。でも別に文章を書くのは嫌いじゃなかったんで、まずエッセイの連載を始めたんです。二号目が出た頃から、いろんな編集者が電話してきてすごく誉めるんですよ。それがおかしくてね。文章といっても日本語だし、外国語で書くわけじゃないしね(笑)。
でも文章を書くのは好きですね。ただ、職業的には、文章を書く人間より、絵を描く人間の方が清々しい感じはしますね(笑)。そういう点ではイラストレーターといわれる方がどちらかというと好きですね。それに僕は芸術ってよくわからない。昔からいるでしょう、耳切ったり、血を吐いたり、原稿用紙ちぎったり、ああいう感じが嫌なんですね。楽しけりゃやるけど、苦悩してまでやるのが嫌なんですね。文章を書くのは基本的に好きだと思うからやってます。今、アメリカの小説の翻訳をしています。

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安西水丸 インタビュー(5)

――今、企画をいただいていて本当の日芸力をいうのを探っているんですが、安西さんが考える日芸力とは何でしょう?


安西 日大芸術学部の卒業生にはご存知の通り有名な人がたくさんいて、朝日新聞の人名事典を見ると三分の一は日芸だとよく言われるんですね。イラストレーターで言うと昔は多摩美術大学が圧倒的に多かったんですが、日芸デザイン学科出身も今は結構多いんですよ。僕は既にその中で長老みたいになってますけど(笑)。そういう意味では面白い学生がたくさん出てきてるんですよ。中途半端な学生が多い中で、きちんと信念を持ってやってきた学生は世に出てきますね。


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