王様に聞く 王様の作り方(1)

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インタビューの前に――

皆さんは自分のことを呼ぶとき何と呼びますか。「僕」、「あたし」、「ミー」など人それぞれ異なると思います。そして今回、インタビューする方はご自身のことを『王様』と呼びます。このインタビューのお話を頂いたとき、一番最初に思ったことは、何でこの人は『王様』なのだろうということでした。しかし、王様について調べていくうちに、その経歴、音楽スタイルが全く王様とは無関係であることを知りました。そのことが逆に『王様』への興味を惹きました。何故この人は王様の格好をしているのだろう……何故この人は独自の音楽スタイルを持つようになったのだろう。独自のスタイルを貫いていらっしゃる、ミュージシャン『王様』も魅力的ですが、それよりも、私は人間としての『王様』の生き様に惹かれてしまいました。今回は文化会議の千原さんにくっついていくという形でしたが、アーティストの生の声を聞ける体験など滅多にないと思うので、前日から緊張してしまいました。ミュージシャン『王様』の奥に隠された一人の人間としての『王様』とはいったいどんな人物なのでしょうか。



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『王様』プロフィール

上智大学卒業後、パルコに就職。しかし、一年半で退職し、バンドや個人での音楽活動を続けながら職を転々とする。
1990年代のとき、英語詞を直訳し原曲に乗せて歌うという直訳ロックと呼ばれるスタイルを確立する。また、髭をたくわえた際の風貌がトランプのキングに似ていることから、王様と呼ばれるようになる。
1995年に発表した、ディープパープルの英語詞を直訳したメドレー曲、『深紫伝説』は同年の日本レコード大賞企画賞を受賞する。
ロックの本質を笑いのオブラートに包んで伝える、唯一無二の存在である。


王様に聞く 王様の作り方(2)

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「いつも誰かが未開の土地を切り開いてくれるんだ」


――今日は、よろしくお願いします。今回はインタビューの際、『王様』のことを『王様』と呼ばさせて頂きます。では早速ですが、音楽を始めたきっかけを教えて下さい。


 う~ん、気付いた時には弾いていた気がするけど……。多分、7歳年上の『兄王様』、つまり僕のお兄ちゃんがギターを持っていて、ビートルズなんかを弾いていたんだよね。それを見ていたから、中学生になった時、自分も何か楽器をやろうかなと思ったんだ。


最初はドラムがカッコイイと思っていたんだけど、いかんせんお城(我が家)が小さくてね。ドラムを置くスペースが無かったんだ。それで、ふと『兄王様』を見るとギターを楽しそうに弾いているわけ。これはちょうどいいと思ってね。それから『兄王様』がいない時を見つけては、こっそりギターをくすねて弾くようになったんだ(笑)。



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―― 『兄王様』もまさか自分のギターが勝手に使われているとは思っていなかったでしょうね。その時はどんな曲を弾いていたんですか。


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王様に聞く 王様の作り方(3)

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「学生時代は、『他人との繋がり』を学んだんだ」


―― 少し話しは変わりますが、ご自身のことを『王様』と呼んでいらっしゃいますよね。いつ頃から『王様』と名乗り始めたのですか。


30歳位からかな……。それまでは王子様だったから(笑)。元来、チャラチャラした感じが好きとか、他人より目立ちたいという気持ちが強いんだと思う。普通の家に育ったから、学生時代なんかは硬派で、普通の学生だったんだけどね。学生時代はずっとハンドボールをやっていたし。これでも見かけによらずバリバリの体育会系だったんだ。


―― ハンドボールですか(笑)それはまた意外ですよね。何故、急にハンドボールを始めようと思ったのですか。


中学生の頃に始めたんだけど、その当時担任だった先生が、ハンドボール部の顧問をやっていたんだ。しかも、今始めれば即レギュラーになれるって言うから、その言葉につられて……。ほら、僕、目立ちたがり屋だから(笑)ただ、レギュラーになれたのはよかったんだけど、ハンドボール自体がとても地味なスポーツだったから、結局ハンドボールで目立つことは無かったかな。


でも同時に、その頃からバンドを組み始めて、文化祭の時なんかにちょこっと活動していたんだよね。だから、学校の中では目立っていた方だと思うよ。きっとハンドボールは単純に好きだったんだよね。



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―― 中学時代はハンドボールにバンドと大忙しだったと思うのですが、高校生になるとやはり音楽に力を入れていくようになるのですか。


いや、ハンドボールをやってた(笑)。もちろん、軽音部にも所属していたんだけどね。僕の通っていた高校は、少し変わっていて、体育会と文化部の両方をやらなければいけない学校だったんだ。それなら、中学時代にやっていたハンドボールが結構面白かったし、高校でも続けてみようかなと思ったんだ。だから、月・水・金はハンドボール、火・木・土は軽音部という感じに、自分の中で使い分けていたんだ。 
  
でも中学時代に比べれば音楽に割く時間は、確実に増えていたと思う。この頃からオリジナルバンドも組み始めたんだ。
女の子をボーカルにしてね。ほら、どこの学校にもいるでしょ、『あたし、自分で歌うし、詩だって自分で書いちゃいます』っていう女の子。でも本当は、エアロスミスやレッドツェッペリンなんかの曲をやりたかった。だから、文化祭の時に彼女に黙って、勝手に弾いちゃったりしたんだ。彼女も自分で書いた詩を自分が歌えれば後はどうでもいいって感じだったから、何の問題も無かったんだけど、今から考えると結構可愛そうなことをしたよね(笑)。


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王様に聞く 王様の作り方(4)

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 「思い切って、『辞めます!』って(笑)」
 


――大学生のときに、人間としての『王様』が形成されたわけですね。大学卒業後はすぐにミュージシャンとして歩み始めたのですか。


 いや、どうしても音楽で食べて生きたいとは思っていなかったから、就職をして一時、サラリーマンをやっていたんだ(笑)。
ただ、大学生の時はハンドボールばかりをしていたでしょう。気付くと、大学も四年の四月になっていたんだ。周りは「就活だ、就活だ!」と騒いでいる頃に就活ってなんだ? って初めて気付いたんだよね(笑)「えっ、皆そんなことしてたの? 」って、気付いたときには、かなり出遅れていたんだ。その時、すごく驚いたのを覚えてるよ。でも、驚いただけで慌てたりはしなかったんだ。まあ、どうにかなるかと思ってね。


その頃から、他大学にいた友達とバンドを組んで、コンテストなんかにちょこちょこ出始めたんだけど、全く受からなくてね。
それで、片手間にちょちょっと、就職活動をしてみたら、渋谷に本社を置くPという会社に受かっちゃったんだ。まあ、この会社でいいか。という感じで翌年からそのPという会社でサラリーマンを始めることにしたんだ。

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 ――現在の『王様』からは想像できないようなサラリーマン生活が始まるんですね。そこではどのような仕事をされていたのですか。


 Pという会社の建物内でミュージカル、映画なんかを企画する部署にいたんだけど……実は一年半くらいで辞めちゃったんだ。


 ――何故、辞めることにしたのですか。


 Pという会社は、一年半くらい勤めると、都内以外に移動させられることが多い会社だったんだ。僕もそのシステムに漏れることなく千葉にある支社に移動させられそうになったんだ。しかも服を売る部署への移動で……。


 それに丁度その頃、仕事の余暇として、友達とバンドを組んで、ちょこちょこ活動していたから、千葉なんかに飛ばされたら、バンド活動に支障をきたしちゃうじゃん(笑)。


 
 

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王様に聞く 王様の作り方(5)

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「一年半が鬼門だよね」
 
――すごく思い切った決断ですよね。その後は音楽漬けの生活を送るようになったのですか。
 いや、そうでも無かったんだ。初めから、一人でデビューというのは難しいだろうと思っていたから、裏方の作曲家としてアイドルなんかに曲を提供しつつ生活出来ないかなとか考えていたんだ。
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だけど世の中そんなに甘くない。多重録音をしながらディスク・ショップでバイトという日々が続いたんだ。家なんか、四畳半、風呂なしでね。しかも結局、十二年間もそこに住んじゃったんだ。そこを出ると決めたときには二階にあるフロアー全部借り切っちゃったりして。二階は全部、僕の部屋みたいな(笑)。まあそうは言っても、結局のところ、今で言うフリーターと変わらない生活をしていたんだけどね。
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 ――普通のフリーターは、二階を貸し切りになんてしません(笑)。では、どのようにフリーター生活を抜け出したんですか。
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転機があるとすれば、二十九歳の時かな。それまでの多重録音生活の中で出来た、多重録音仲間の一人が、とあるプロデューサーの目に留まったんだ。そしてデビューさせてもらえることになった。
でも一人でデビューというわけではなく、バンドとしてデビューする必要があったみたいなんだ。その時に、そいつから僕にギターとして参加しないかというオファーが来たんだ。当時、僕はフリーターだったから、断る理由なんて何も無いわけ(笑)。即承諾して、ギター兼コーラスとしてそのバンドに参加することになったんだ。そしてメジャーレーベルからCDを出してもらい、一年半くらい活動していたんだ。
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でもボーカルとの音楽性の違いなんかで喧嘩になっちゃって、そのまま僕だけ脱退ということになったんだ。この時、学んだことは、僕が何かを始めた時は、一年半が鬼門だと分かったことかな(笑)。会社もバンドも一年半で辞めてしまったからね。
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王様に聞く 王様の作り方(6)

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「『王様』の格好で、番組に出てみないか」
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――ここで、『王様』の独自の音楽スタイルが確立されたわけですね。では、『王様』というキャラクターはいつ完成されたのですか。
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それは三十一歳の時。僕の友達にSONYのプロダクションで働いている奴がいたんだ。
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ある日、そいつから連絡があって、「今度、ガールズ・ロックバンドのライヴツアー・サポート・ギタリストをやってくれないか? 」という誘いが来たんだ。そしてそれから、そのバンドのサイドギターとして、色々なところでライブをしていたんだ。そのときに楽屋で一緒に回っていたバンドの女の子から「吉田戦車って知ってる? 漫画家やねんけど、その漫画に出てくる『王様』に似てきたんちゃう? 」って言われたんだ。
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それからかな……『王様』と呼ばれるようになったのは。ライブでも本名だとつまらないから、サイドギターの『王様』と紹介されるようになったし。あとは一人の活動として、弾き語りでブルースを歌うようになったんだ。
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この時、僕は三つの顔を持っていたんだ。ライブツアーの助っ人ギターリスト、自分一人の日本語直訳ブルース・ロック、そしてハガキの宛名書き職人(笑)。
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あと『王様新聞』というのも、この時に始めたんだ。最初は学級新聞みたいな物だったんだけどね。僕の周りで起きた小さな出来事をあたかも物凄く大きな事件があったかのように書いていくわけ。
例えば『黒い生命体が空を飛ぶ! これは宇宙からの使者なのか? 』みたいなね。ただ台所にゴキブリがいただけなんだけど(笑)。
あとは官能小説も書いたな。ほんと五十字程度の官能小説。ただ内容までは明かせないけどね。そして出来上がった『王様新聞』Bはコピーして音楽仲間に配っていったんだ。
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そんな活動をしていたら、ある時、サラリーマン時代からの知り合いだったサンプラザ中野さんが『王様新聞』を読んで、これは面白いと思ったらしいんだ。そして、テレビ東京で始まる新番組にアシスタントとして『王様』の格好で出てみないかと誘われたんだ。
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王様に聞く 王様の作り方(7)

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 「嫌でも期待しちゃうでしょう」


――これで、日本語ロック、『王様』、と現在に繋がる全てが揃い、あとはデビューを残すのみとなったわけですが、それはどのような経緯で決まったのですか。
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番組が放送されている間、徐々に『王様』というキャラクターの認知度も上がっていったんだ。
そんなときに、昔、勤めていたPという会社、まあ池袋のパルコなんだけどね(笑)。そこでライブをやらないかと誘われたんだ、それから、ちょこちょこライブをしていくことになるんだけどね。
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番組に出ているということもあって、道を歩いている人たちが結構、立ち止まってくれるわけ。それなら皆が知らない曲をやるよりも、皆が知っている曲をやった方が喜んで貰えるだろうと思って、その時、初めてビートルズの曲を直訳して歌うことにしたんだ。

それから、先輩との飲み会や、カラオケなんかでも直訳ロックをやるようになって……三十五歳の時、日本青年館という少し大きなところであるシンガーソングライターのライブをやった後、打ち上げがあったんだ。
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その時、たくさんの音楽プロデューサーがいる前で余興の一つとして、直訳ロックをやったんだ。そうしたら、その中にいたプロデューサーの一人が、「ディープパープルを日本語にするのが面白い」って言ってくれたんだ。あと、デモテープを持って来いって言ってくれて、デビューが決まったんだ。


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でも、いざCDを出すぞという段階になってもなかなか発売の許可が下りなかったんだ。本当なら四月に発売する予定だったんだけど、五ヶ月も遅れて、ようやく出せたのは九月になってからだった。この時ばかりは本当にどうなるんだろうと不安だった


 
 

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王様に聞く 王様の作り方(8)

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「売れた後、何をするかが難しい」

 
――本当にたくさんの紆余曲折を経て現在に到るわけですね。
 

そうだね。テレビに出て『王様』の知名度は上がったんだけど、視聴者はミュージシャンとして『王様』を見てくれてはいなかったと思う。番組中では三分で終わらせてくださいと言われるから、ギターソロなんて弾けなかったし。パルコでの営業にしても、ウケを狙ってやっていたから、そんなにしっかりギターを弾いていたわけじゃないんだ。


だから視聴者からしてみれば、ロックミュージシャンというよりもお笑い芸人として見られていた気がする。そんな中で最近は直訳ロックというものが受け入れられたことが嬉しいよね。
 

売れるということも大変だけど、ある程度認知されてから、それをきっかけに、何をするかということの方がもっと難しいことだよね。


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 ――現在はどのような活動をしていらっしゃるのですか。
 

『シュレック』でロビンフットの声なんかをやったよ。


基本的には、皆を楽しませるということを目標にして活動しているんだ。


あと最近多くなってきたのが、親父バンドコンテストの審査員かな。僕と同世代くらいの親父たちが定年後、青春時代に返ってバンド活動をしているというのが良いよね。
ただ僕って、審査員にも関わらず審査が甘口なんだよね。八割褒めて、二割は促すみたいなね。ただし二割のこうして欲しいというコメントというのは、物凄くこうして欲しいと思っているんだよね。


「すごく元気が良くて、聞いているこっちも元気になりました。もう少し歌を練習してくれたら、もっと聴きやすくなると思います」みたいなときなんかは、本当は物凄く歌が下手だからもっと練習して欲しいと心から思っているんだけど……言えないんだよ。


甘口の『王様』だから(笑)。

王様に聞く 王様の作り方(9)

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「還暦記念、赤ちゃんちゃんこライブ」


 ――将来への不安などはありますか。


病気が不安かな。自分の体だけが頼みっていうところがあるから。今はマネージャーも付けず、事務所もマネージメントも全て一人でやっているからね、とても自由なんだよ。行ってきます!と元気良く家を出て仕事をすると思いきや、パソコンでゲームをするとかね(笑)。


でも、一人でやっているから、自分で何でも決めてしまえるんだよ。でもその反面、もしも自分が倒れたらこの事務所はどうなるんだろうといった不安はあるかな。
ただ打ち合わせ一つにしても、自分自身でやるのと、マネージャーを通してやるのとでは意味合いや感じ方も変わってしまうと思うんだよね。


どちらにしてもメリット、デメリットはあると思う。まあ、健康なら何とかなるかなとも思うよ。ほら、次男坊だから(笑)。

 ――では今後はどのような活動をしていこうとお考えですか。
 

還暦までは絶対やりたいね。還暦記念赤ちゃんちゃんこライブはもう自分の中で予定に入っているし(笑)。


あとコピーバンドを組んでレッドツェッペリンなども演奏したいな。親父バンドコンテストの審査員

後は『王様』から将軍になって海外進出なんかもしてみたい。まあ何にせよ、こんなふざけた格好をしているけれど、これはただの遊びじゃない。本気の遊びだぜ!というところギターで見せてやりたいかな。

「好きだからやっている。そういう人が輝いている」
 
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――では、最後に大学生に向けて一言よろしいでしょうか。
 

気付けばそばにあったというものを大切にして欲しい。ものになるには最低でも三~五年位かかるから諦めずに続けて欲しいんだ。『王様新聞』なんて十六年も続けているわけだし。継続は宝なりかな。


最近は就職にしても大学にしても、没個性化が進んでいる気がするんだ。
きっと就職も大学のシステムも本来の意味からずれたところに作られてしまっているんだろうね。だからこそ好きなことがあるならそれを一生懸命やってみる、そんな時間が必要なんだと思う。


中学、高校、大学の時点で、自分の好きなことが見つかっていて、それをやることに自信があるなら、試してみるのも素晴らしいことだと思う。きっと何をしたら良いのか分からないというモラトリアムも、何かを始めてみる、そしてそれを継続することで解消されていくと思うんだよね。
やっぱり、好きだからやっている、そういう人が一番輝いていると思う。アイドルの後ろで助っ人としてやっている人でも、アルバイトでも、ロックバーを回っている人でもすごい人は、やっぱりすごいんだよ。


それは音楽に限らずどの世界でも言えることだと思う。今は昔とは違ってテレビ至上主義ではなくなってきているよね。インターネットなど、伝え方も多様化していると思うんだ。


そんな中で、すばらしい人たちが、自分の好きなことを、自分自身の力で表現していく、そういうものに触れたり、出会うとそれは嬉しいことだよね。だからそういう人たちが増えて欲しいと思っているし、また、そういう人たちとたくさん出会いたいと思っているんだ。

――今日は本当に長い時間お話を聞かせていただき、どうもありがとうございました。


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インタビュアー 企画 千原和樹 テープ起こし・構成・編集 能勢高雄 写真撮影 川島桂 太田鉄哉