宗教学者・島田裕巳(1)

宗教学者・島田裕巳

島田裕巳(しまだ・ひろみ)プロフィール
一九五三年生まれ。東京都出身。東京大学大学院人文科学研究科博士課程終了。専攻、宗教学。一九九五年のオウム事件に際し、事実誤認報道に基づくメディアのバッシングに遭い、日本女子大学を辞任。その後、オウムの考察を糸口に、探求の対象を現代日本社会全体に拡げて『オウム なぜ宗教はテロリズムを生んだのか』(トランスビュー)に結実した。現在は、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員。

主な著書
『慶應三田会―その組織と全貌』(三修社 2007.10)
『創価学会の実力』(朝日新聞社 2006.8)
『オウムと9・11』(メディア・ポート 2006.7)
『宗教としてのバブル』(ソフトバンク新書 2006.3)
『宗教常識の嘘』(朝日新聞社 2005.10)
『会議はモメたほうがいい』(中央新書ラクレ 2005.6)
『不安を生きる』(筑摩書房 2005.4)
『「厄年」はある!』(三五館 200.3)
『女はすべからく結婚すべし』(中央新書ラクレ 2004.9)
『人を信じるということ』(晶文社 2004.9)
『創価学会』(新潮新書 2004.6)
『相性が悪い!』(新潮新書 2003.11)
『日本人の神はどこにいるか』(筑摩書房 2002.6)
『カルロス・カスタネダ』(筑摩書房 2002.2)
『オウム なぜ宗教はテロリズムを生んだのか』(トランスビュー 2001.7)
他、多数



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インタビューの前に  Text by 山下聖美

一九九一年、私は日本女子大学文学部英文学科に入学した。島田裕巳氏はその一年前、同じ文学部の史学科に、助教授として赴任している。当時すでに「テレビなどに出ている有名文化人」になっていた島田氏の宗教学の授業は、大変な人気であった。一般教育科目にもなっていた氏の授業をとるために、確か、抽選が行われていたように思う。一方で、オウム真理教のことで世間からとやかく言われるようになったりと、とにかく氏は目立つ存在であった。

 残念ながら私は氏の授業をとる機会がないままに卒業。島田氏も事実誤認報道にもとづくメディア・バッシングの影響で辞任。ちなみに私は、日本女子大学では何か満たされないもの、ものたりない「何か」を感じ、日芸(日本大学芸術学部)の大学院へ進学、現在は文芸学科の教員となっている。


この間、私自身にはいろいろなことがあったが、島田氏の大著『オウム なぜ宗教はテロリズムを生んだのか』を読み、大きな衝撃を受けた。日本女子大でのこと、オウム真理教のこと、いかにジャーナリズムからバッシングを受けるようになり、いかに闘ったか――


 あの温和な笑顔とユニークな語り口の〈核〉にあるのは、書くことで闘う、氏の宿命のようなものであったのだ。それは静かな情熱であり、迫力であった。私が日本女子大で感じていた、何か物足りないという思いの「何か」を、はからずも日本女子大を五年七ヶ月で辞任された島田氏から強烈に感じた。
 

そして二〇〇七年、私ははじめて担当するゼミナールの学生とともに、大学時代に見つけることのできなかった「何か」を確認すべく、島田裕巳氏にインタビューを試みた。

宗教学者・島田裕巳(2)

宗教学者・島田裕巳

「そもそも私は一体なにものなのか?」


―― 今日は島田先生の「書く」ことの核について、お話を聞かせて頂ければと思います。先生は本当にたくさんの本をお書きになっていますが、戯曲も書いていらっしゃったんですね?


島田 日本女子大を辞めて暇なころに、たまたまシアターTOPSという劇場の仕事が入ってきたんです。戯曲を書きませんか、って。まず、稽古期間がなくてもできる戯曲が条件だった。そして、『5人の帰れない男たち』という手紙劇を書きました。五人の男たちが手紙を読むんだけれど、「読む」わけだから、稽古がいらなくてすむし、セリフを覚えなくてすむ(笑)。


 今や人気者になった堺雅人さんが、当時「東京オレンジ」という劇団にいて、出てもらいましたし、あと、田山涼成さんにも出てもらいました.。そういえば彼は、二〇〇三年にドラマの『白い巨塔』で死んでしまう患者役をやっていましたね。当時は、僕も病気を患っていて、ドラマの中の彼が受けた検査と、たまたま同じ検査を受けたんですよ。だからそれがリアルに迫ってきた(笑)。あとは、妹の劇団にいた加藤忠可さんとか劇団ラッパ屋の木村靖司さん、有薗芳記さんなどに出てもらっています。自分で褒めるのもなんだけど、あれはなかなかよくできていた芝居でした。


 ちなみにその妹は日芸の演劇学科を出て、「劇団ショーマ」に入って制作をやり、今は独立してプロデューサーをやっているんですよ。


―― 戯曲を書かれているならば、依頼があれば、小説もお書きになりますか?


島田 未発表だけれど、すでにあります。『小説新潮』の人は気に入ってくれたけど、『新潮』の人が気に入ってくれなくて(笑)。それは、大学院生を主人公にしたお話です。冒頭が東大の三四郎池からはじまって、最後もそれで終わる。いわば、漱石に捧げた未発表作品ですね。

 
―― 本当に何でもお書きになるんですね。


島田 今でこそ、『公明党VS創価学会』みたいな本も書いているし、今日も、『週刊ポスト』の中吊りに私の名前が書いてありますが、これは部落差別について発言したものです。今は、芸術新聞社で刊行予定の『日本宗教美術史』というのを書いていますし、三修社で刊行予定の『慶応三田会』という本も書いています。


 こうやっていろいろ書きながら、自分の中ではいつも、「そもそも私は一体なにものなのか?」という意識はあります。本来の僕は、オウム真理教とか創価学会を扱う人ではないんじゃないかって思いも実はあるんです。でも、創価学会ものは売れるんですよ(笑)。それに、社会的な問題も見逃せないし。


 先に述べた『日本宗教美術史』は、五〇〇枚という制限つきなんですが、仏教が渡来する前だけで、二〇〇枚に及んでしまっているんです。ある編集者に相談したら、「全部で一七〇〇枚ぐらいになるでしょう」と言われてしまった。なかなか大変な作業だけれど、完成したら、なかなかのものになるという予感はあります。こんな仕事をしながら、自分の人生を軌道修正して、文化勲章でももらえるような人になりたいですね(笑)。

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宗教学者・島田裕巳

師・柳川啓一と「イニシエーション」


―― そもそも、先生は宗教学のご専門ですよね。なぜ宗教学という分野を選ばれたんですか。


島田 大学二年から三年になるときに、学科を選んで進学するんですが、点数で振り分けられるんです。僕は最初、文化人類学をやろうと思っていました。けれど、成績が悪くて行けなくて、その反面、「宗教学」は底なしっていわれていたので、誰でも入れたんですよ(笑)。


 僕自身はあまり、宗教に対して関心はなかったんですが、大学二年のとき、柳川啓一先生の授業をとって、そこで論じていた「イニシエーション」構造の話が面白くて! それこそ、文学についても、歴史を解釈する上でも、イニシエーション構造によって語れてしまうんですよ。応用可能なんですね。だから、僕はあくまで、宗教から入ったのではなく、宗教学というものに興味をもった、ということです。


 そして、四年生のときに柳川先生が、新宗教運動の研究の目的で、学生を色々なところに潜り込ませて、体験調査を促したんですが、僕はヤマギシ会に行きました。しばらくはそこに入っていたんだけれど、途中でイヤになって。僕って都会っ子だから、田舎にあるヤマギシ会の農場がイヤになっちゃったんですよ(笑)。だから、大学院に進むことにしました。まるで『坊っちゃん』みたいだよね。当時は、他に行くところもなかったしね。一度人生外れちゃって、就職もできないから(笑)。そんな人生を見つめなおす意味も込めて、大学院に行ったという感じです。


 ちなみに、柳川先生の息子さんがグループサウンズをやっていまして、渡辺プロに入っていて、後に作詞家に転じています。沢田研二の曲に携わったりしてね。うちの学科は先生の影響もあって、非常に芸能っぽい雰囲気でした。後輩には東大生演歌歌手なんて人もいて。東大の中の、外れだった(笑)。



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―― 大学院にすすみ、さらに柳川啓一先生のもとで研究されたんですね。


島田 そう。先生はアル中に近かったけれど(笑)。宗教学には、普通の年だと、せいぜい二~三人しか入ってこないんだけれど、僕らのときだけは十六人も入っています。その中には、四方田犬彦氏もいました。ちなみに、中沢新一氏や中原俊氏は僕の先輩です。


 僕自身は、修士二年、博士五年、在学していました。博士課程は今とは違って、博士論文は義務ではなかったんです。むしろ、「そんなもの書けないよ」って雰囲気だった。だから博士課程に入ると、何をやっていいか分からなくて、そこで、「人生どうする」みたいな状況に追い込まれてしまいましたね。就職は必ずしもあるわけではないし。ちょうど、オイルショックの後の、就職難の時代だったし。就職がふって来るのを、「弥勒信仰」みたいに待っていたりなんかしてね(笑)。


―― 大学教員の就職というのは、現実的に、ほとんどすべて、紹介ですよね。柳川先生以外に、就職など紹介してくれた方はいたんですか?


島田 おもに先輩ですね。まず、僕が最初に就職した先は「放送教育開発センター」。全然、宗教学とは関係ないんだけれど、遠隔教育のプロジェクトをやっていましたよ。先輩がそこの部長でした。


当時、僕は助手だったんですが、研究計画の作成を任せられたりしていました。ここではプロジェクトをやったり、月刊で機関誌を出したり、結局、五年半働きました。入ったのが三〇才のときで、途中で助教授になったんですが、そのとき、所長が代わったんです。この人が、僕の先輩である部長と、とても仲が悪くてね。それで、僕が助教授になってからは、完璧に窓際に追いやられてしまいました。あれは精神的に良くない経験でした。千葉の幕張っていう、当時の埋め立て地で、まさに、地の果てというイメージ(笑)。


 その後、幸運にも日本女子大学に拾われました。これも僕の先輩の紹介でした。日本女子大はとても業績にうるさいところで、僕以外に、二人の先輩が候補にあがっていたらしいんだけれど、はねられちゃっているんですよね。でも、その人たちはまだ非常勤で残っていて、気まずかったですね。それが一九九〇年のことでした。

宗教学者・島田裕巳(4)

宗教学者・島田裕巳

日本女子大学での五年七ヶ月


―― 私が入学したのが、翌年の一九九一年です。その頃、先生はすでに有名人でしたね。一般教育の「島田先生の宗教学」は大人気でした。


島田 僕は、妹二人に、母親はもちろん、祖母もいた家庭で、わりと女性環境に慣れていました。だから、女子大にいっても、期待もなければ違和感もなかった。あそこは、文学部の中に、史学、英文、国文の三つがあったよね。僕は史学科。あの大学の中で、史学科だけは変わっていて、付属高校からの内部進学者があまり来ないんだよね。


―― そういえばそうでしたね。学科ごとにカラーがあって・・・・ 私のいた英文学科は女性の先生がたくさんいて、史学科とは全然違う雰囲気でした。なんだか、懐かしいですね。


島田 史学科では、社会科の免状を出すために、哲学・宗教学の人間がひとり、必要だったんです。そういう理由で、僕のようなポジションができた。だから、史学科の人は別に宗教学なんてほしくなかったんだよね。最初は、それこそ窓際じゃないけれど、隙間家具扱いだった(笑)。卒論も担当できなかったし。だけど、学生を言いくるめて、自分の学生を確保し、卒論ゼミを単位化して、少しずつ力をつけていったんです。


また、僕は、大学と付属高校との連絡委員もやっていて、その仲の悪さも改善もしたんですよ。女子大の、いまの教育プログラムにけっこう貢献したんですが、結局追い出されちゃった(笑)。ここでは、最後の七ヶ月だけ、教授でした。それが、四二才のときですね。

 
―― あの頃はいろいろありましたね。ちょうど私が卒業する日の三月二〇日に、地下鉄サリン事件がおきて。先生も当時はかなりの被害を被っていますよね。詳細は『オウム なぜ宗教はテロリズムを生んだのか』という御著書に書いてありますが、私が思うに、先生は目立っていたので、世間や大学からいろいろと嫉妬されたんでしょうね。


島田 うーん、結局は合わなかったってことかな。でも、女子大で教えた経験は貴重でした。今思えば、大学を辞めてよかったとも思えますね。

宗教学者・島田裕巳(5)

宗教学者・島田裕巳

メディア・バッシングと闘う


―― それにしても、先生は当時、大変なメディア・バッシングを経験されています。それも、事実誤認報道で。


島田 誰かがなにかを言うと、みんなそれに続いてくるよね。日本女子大のときも、まわりの先生たちは守ってくれたんだけれど、だんだん、状況が悪くなってくると、皆、仕方がないと考えが変わってくる。いま考えると、叩く側、人をやめさせる側に回らなくてよかったな、と思いますけれどね。


 思うんだけれども、マイナスをたくさん重ねると、プラスに転じることもある、と。逆に、マイナスすらないと、苦しいものだよ、案外。ハンディキャップのある人の方が、逆に、前向きに人生を組み立てていることが多いですよね。今の世の中みたいに、豊かでプラスばかりの状況って、かえって苦しいものじゃないのかなあ。


 マイナスを積極的に溜めることも、時には大事だと思います。恐れることはないんですよ。マイナスを溜める形で、社会とぶつからないと、いいものはできてこない。マイナスを溜めて、それを逆転させる契機を得ることが重要ですよね。


―― マイナスを溜める、という気持ちでいつも強く生きていたいです。でも、今も、ネット上には、ありとあらゆる誹謗中傷が蔓延しています。それによって傷ついたときに、どうやって克服すべきでしょうか。


島田 良きにつけ悪しきにつけ、すでにそういう社会になってしまっているんですよね。下手に反応すると、また、つっこまれる。それに傷つかないというのは無理でしょう。耐えるのが一番だね。今すぐは、つじつまが合わないだろうけれど、長いスパンで考えてみると、自分を一回り大きくさせるプロセスになるかも。


 僕も日本女子大を辞めさせられて、そこまで言えるようになるまで、十年かかったもの。長い時間で捉えると、忘れるという意味ではなく、つじつまが合うこともあるんです。それを期待しようよ。そこでまた、誰かを攻撃しようとすると、もっと悪いことに陥ってしまう。


よく、「なぜ自分だけが」って言うんだけれど、そこで加害者になってしまうと、決定的な敗北じゃないかな。それだけにはならないことだね。人をいじめる人間には、きっと天罰が下ると思うよ(笑)。世の中には必然というものがあって、間違ったことをやった人は、どこかで人生を踏み外していますね。僕にとって、そう考えるのが、一番楽です。なにか悪いことをしたら、そのときはいいように思えても、あとで大変な目にあうからね。


――なるほど、そうですね、確かに・・・・

 
島田 メディア・バッシングと言えば、最近もあって。相手は太田光氏なんだけどね(笑)。まず『憲法九条を世界遺産に』の本を読んだんです。そうしたら、太田氏が文章を書いていて、内容的には面白かったんだけれど、それを読んだときに、なんというか言い表し辛いんだけれども、太田氏が書いた文章のようには感じられなかったんですよ。もっと年をとった、文章に慣れた人が書いたもののような印象を受けたんです。


その印象を、僕がブログに書いたら、その二~三日後にアクセス数が急に増えて。通常、一〇〇人前後なのに、二〇〇〇人とかね。調べてみたら、太田氏がラジオの番組で、僕のブログについて怒っていたらしいんですよ。僕の名前は言わなかったらしいけれど。その途端にアクセス数が増えていた。


 そしてコメント欄に、ある人物が、「太田さんに謝れ」っていう旨のコメントを書き込んで、その後から、同じようなコメントがどんどん入ってきて。それで、すぐコメント欄を閉じたんだけれど、あれを放置していたら、「炎上」していただろうね。人間って、最初は冷静なんだけれど、ある突破口、これに乗っていいんだっていう状況が一度生まれると、どんどんそれに便乗してくるということを学びました。


――先生のブログで、そんなことが起きていたんですね。


島田 ブログを開いていると、仕事が来るというのもあるし、何か起こったときの防衛にも使えるかな、と考えています。スキャンダルを弁明する、ひとつの発言の場、僕の個人メディアです。


 一方で、オウム事件のころは、組織に属していたから、状況がとても厄介でした。組織に属していると、まず、組織の中で発言を制限されます。だけど、今は個人としてやっているからね。結局、組織に属している人が、一番ターゲットにされやすいし、叩かれやすいんですよね。僕も昔、組織の中で怪文書を回されて、本当に迷惑しました。


―― そんなことがあったみたいですね。本当に大変でしたね。


島田 あれ以来僕は、なるべく人と仲良くするように心がけていますよ。オウム事件のころ、有田芳生氏が批判してきたんだけれど、あるとき、彼が僕の講演に来たんです。そのあと、少しずつ親しい関係になっていってね。弁護士の滝本太郎氏も、はじめは仲が悪かったんだけれど、僕が彼のいるところまで訪ねていったら、フィリピンパブに連れていってくれたよ(笑)。


 「イニシエーション」構造ではないけれど、僕も少しずつ大人になってきているのかな。若いころは、意識として、相手の意見を突っぱねるんだよね。でも、それだけじゃ、世間は渡って行けないことに気がついて、地道に、付き合いのネットワークを広げていってますよ。

宗教学者・島田裕巳(6)

宗教学者・島田裕巳

〈書く〉仕事


島田 今は、経済的に、本を出さないと食っていけないから(笑)。だんだん、次に繋がるように仕事をするようになってきていますね。こういう本を出すと、次にこういう仕事が来るかな、とかね。


文章って不思議なもので、『週刊新潮』に、「日蓮のDNA」という創価学会についての短い文章を書いたんです。この文章をきっかけにして、別のところからも仕事の依頼がきたりして、今、僕がやっているいくつかの仕事というのは、全て、その短い文章がきっかけだった。


―― 先にも言いましたが、本当に先生は毎年次から次に本を出されていますよね。ブログも更新して、書きまくっていらっしゃいます。 


島田 忙しいときは、逆に仕事を増やしたしたほうがいいかもね。なぜなら、ひとつは、仕事が増えると、ひとつの仕事に対する心理的な負担が軽くなるし、忙しいから合理的になる。それに、仕事って、それぞれ、意外に関連しあっているものなんだよね。あるきっかけで、自分の領域が、少しずつ広がってゆく。だから、半分計画的で、半分は無計画。あえて、計画に余白を残しておいています。


 TVで見たんだけれど、ある職人さんで、ここ何十年か、家から出たことがないって人がいらっしゃるそうです。一日中、ずっと仕事だけしていてね。そのことを知り、妙な感動を覚えました。そういう人生もあるんだな、って。書くというのは、やっぱり、職人仕事に通じるところもありますね。


――書くときは、おもに誰に向けて書いているんですか。


島田 読者に向けて書くとか、そういう意識は必ずしもないです。「これを誰かに伝えたい」とか、そういうのはないです。伝えるというより、書くということが自己目的化しているところがあります。僕はワープロで書くんだけれど、書いて、完成してしまうと、もうあまり興味がない。書いているときのほうが断然、面白いね。


 今の本って、世に出すとすぐに、売れるかどうか、大体分かっちゃうんだよね。出た日の感触で。在庫の数とかも出ちゃうし。読者の反応や書評よりも、むしろ最初に気になるのはそれなんです。重版になることなんて、本当に稀な世界ですよ。売れているのであれば、ある程度の悪口を書かれても、平気なんです(笑)。僕はなにより、売れてるかどうかの数字のデータが怖いです(笑)。


 ブログで感想などを書いている人って、たいてい、著者がそれを読んでいるとは思っていないんですよね。でも、意外にも読んでいるんですよ。だから、昔より反応がダイレクトにわかる。例えば、批判を書かれたことに反応すると、また叩かれる。著者の置かれた環境って、文壇史的に考えれば、昔とは違ってきていると思います。シビアな闘いですね。


――では最後に、日本人にとって、先生にとって、「信じる」とは、「宗教」とは何か、聞かせて頂きたいです。


島田 二一才のとき、ヤマギシ会の研修会で、どうして自分は腹が立つのかを調べて、それを徹底的に議論したことがあったんです。そして、腹が立たないようにする。その体験は、人生の中でも大きかったかな。人間、腹が立たないのが本当なのかな、って思いました。


野球の松井選手も昔、人に対して怒りをぶちまけたら、反対にすごく怒られたらしい。それ以来、「人のことは悪く言わない」と心に誓ったらしいですね。彼の家は、たまたまおばあさんが宗教の教祖なんです。松井選手は、どんな状況にあっても、必ず試合後のインタビューを受けていますね。イチロー選手は「そんなの僕には絶対無理」って言っていたけれど。


 なにかを信じる、信じないということよりも、人のことを悪く言わないということを彼が守ってきたことにより、彼自身の人生が変わったということを聞いて、僕は感動した。いわば、人と付き合うときの方向性の問題だね。そこに、もしかして、僕にとっての「宗教」の原型があるのかもしれない。


 自分に対しての試練、枠を自分に課して、最後までやり通すということ。それは格好いいことだよね。我々の宗教の核にあるのも、そういう部分なのかもしれないと思います。


―― 島田先生、今日は本当にどうもありがとうございました。

インタビュアー 山下聖美
        高橋数
テープ起こし  栗原隆弘
編集      山下聖美